「楽にならざり」
啄木の『一握の砂』から三首引く。啄木の歌集は総ルビ付きであるが、適当に略し三行書きも一行にする。これは今までと同様である。
はたらけどはたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽(らく)にならざりぢつと手を見る
この日頃ひそかに胸にやどりたる悔(くい)ありわれを笑はしめざり
いつなりけむ夢にふと聴きてうれしかりしその声もあはれ長く聴かざり
「ざり」を使った歌を挙げてみた。(次の『悲しき玩具』には見られない。)この「ざり」は、言うまでもなく打消しの助動詞「ず」と動詞の「あり」とが結合して「ざり」となった助動詞で、古語辞典や多くの文法書の活用表には、
ざら ざり ○ ざる ざれ ざれ
となっている。つまり終止形となるべき「ざり」は○印となって普通は使われないということだ。今、歴史的に細かい考察をする必要もないが、万葉集には
島の御門は荒れざらましを(一七三)
咲くかざりし花は咲けれど(一六)
照る月のあかざる君を(四九五)
あらたまの年の緒長く会はざれど(三七七五)
の如く各活用形が見られるが、終止形は勿論ない。この助動詞は、本来の打消の助動詞「ず」だけでは、他の助動詞への接続が不便なので発生したもので、もともと「ざり」という終止形は必要でなくそれは「ず」で間に合ったということなのであろう。
松村 明編『日本文法大辞典』(明治書院)を見ると、
終止形「ざり」は、用例を発見しがたく平安時代はあまり用いず、鎌倉時代以降もきわめて稀である。
と説明しているが、その用例に平安時代の「朱雀院は御子達あまたおはしまさざり(栄華物語、月の苑)と「女院の四十の御賀の屏風の歌もしもやとてまうけ給へりけれどもさもあらざり」(藤原公任集。この引用は角川書店の『新編国歌大観』の公任集による。)という二例を挙げている。これは非常に稀な例なのであろう。しかもあっても散文のなかであり、和歌に用いられた例は、明治以前は皆無なのではあるまいか。大体「ざり」を単独で使うのは「くあり」が「かり」となったのと同様に安定しない感じであるし、記述的で語感もよろしくない。
しかし明治になってからは、暗黙のうちにそのタブーがおのずとゆるんだのか、上の如く、啄木も「ざり」を使った。だから同時代のほかの歌人の使用例もあるに違いない。
このほど與謝野晶子の『みだれ髪』を開いてみたが「ざり」はないけれども、
小草(をぐさ)いひぬ『酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少女(をとめ)』
春の夜の闇(やみ)の中(なか)くるあまき風しばしかの子が髪に吹かざれ
という二首に気がついた。「ざり」の已然形の「ざれ」、命令形の「ざれ」も、平安時代の女流文学の和文では忌避されて使われず、漢文の訓読文のみに使用されたというが「覚めざれな」「吹かざれ」と堂々と使っている。これもタブーのゆるんだ一例と言えようか。しかしサメザレナなどと言うのは、決して音感がいいとは言えないだろう。
「ざり」に戻って茂吉の用例を一首挙げよう。
われ起きてあはれといひぬとどろける疾風(はやち)のなかに蝉(せみ)は鳴かざり 『あらたま』
このほかにもあるかも知れないが、どうも見当たらない。ついでに文明の二首も挙げよう。
くえ阻(はば)の下あたりは雪しろの流るる川といへど見えざり 『往還集』
去年よりふるさとをしばしば通れどもむかしの人はかつてあはざり 同
この昭和初期作以降見えないのはその坐りの悪さを自覚したためであろうか。
ここで最近の「ざり」の例を挙げておく。
いちどきに鳩が舞ひたつ公園の空一瞬に何も見えざり 志垣澄幸「歌壇」平成8・2
脳梗塞の兄に言葉の戻らざり死語も造語も海へ還(かえ)せし 岡 豊子「歌壇」平成8・3アンソロジー95
齢老いて著書いださんと思はざり米(ベイ)クリントンの言葉に謝せん 辻森秀英同
三首目の歌には(橘曙覧の歌)という注がある。(これはあるいは「思はざりき」の誤記かも知れない。)
このように近代以降は、「ざり」の用例は多くはないが、珍しいものでもなくなった。しかし一首のなかで何か収まりが悪いのは、この助動詞の発生以来の固有の事情に根ざすものと思う。特に結句の「ざり」止めは、着地の安定感を欠く。それは、茂吉の「とどける疾風のなかに蝉は鳴かざり」などにも指摘できることだ。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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