作品紹介

若手会員の作品抜粋
(平成19年10月号) < *印 新仮名遣い>


  宝 塚 有塚 夢 *

書くつもりなかった「会いたい」なんてことこれじゃあまるで恋文じゃないか



  東 京 森本 麻衣 *

暗闇でヒゲを切られた黒猫の声は細りて長く弧を成す



  狛 江 山田 さやか *

教科書に押し花にした月草の色のつきたる桐壺の巻



  埼 玉 松川 秀人 *

普段なら夜行列車では眠れないそんな自分が熟睡している



  高 松 藤沢 有紀子 *

子の手術終わりて病室の窓にしみじみと眺むる遠き空の青さよ





(以下 HPアシスタント アイウエオ順)

  福 井 青木 道枝 *

「短歌は趣味なんかではありません」声のひびけり若き女医さん
いきれ立つ夏草のみち先ざきを蜥蜴のしっぽか光の走る


  横 浜 大窪 和子

駅の階段下らむとして気づきたり追ひつ着きてわれに並ぶ横顔
同根にて離反せしものの憎しみは深し人の世の業といはむか


  那須塩原 小田 利文

四歳となりて言葉の出で初めし汝がこゑ楽し忙(せは)しき朝も
雨に咲く待宵草に自づから湧く悲しみに母を思へり


  東広島 米安 幸子

探湯(くかたち)に審判くだしし甘樫の丘に陪審制度のことを思へり
時の綺羅といふも危ふし勢ひに任せし入鹿の短か世思ふ


  島 田 八木 康子

「人の為と書いて偽りと読むんだね」ただこれだけの詩が絡みつく
人の嘘がすぐに見えくる悲しみに取り込まれつつ術なき幾日



選者の歌


  東 京 宮地 伸一

窓あけて夜半に仰ぎし畝傍山目ざめてまもるまた明け方に
本雑誌寝床に迫ることもなく詠草かたへに安らかに臥す


  東 京 佐々木 忠郎

四十九日の法要に飾られし汝が写真抱きて帰る吾は疲れて
息子来て酒飲みゐしがつと立ちて智恵子の写真に杯供ふ


  三 鷹 三宅 奈緒子

声を張り杯(はい)挙げたまへば涙ぐまし病む身を押して九十三歳のきみ
飛鳥の地ともにめぐりき君も君も亡きを思ひて川原寺の趾(あと)


  東 京 吉村 睦人

胸内に翳りの残るごとくにて死に至るまで消えずと思ふ
暗がりにマッチを擦りしごとくにもわが胸の中しばし明るむ


  奈 良 小谷 稔

きほひたる三日の会を終へて対ふ南淵山のひのき瑞山
夫君に手をとられ流れを渉ります遠世の明日香をとめさながら


  東 京 石井 登喜夫

歩行器を押しゆく心ゆとりにはやさしきものかアベリアの花
こころみに歩幅大きく歩むとき走り来し媼にたしなめられぬ


  東 京 雁部 貞夫

宗久は死の商人とも言ひつべし鉄砲弾薬売りて巨き富を得たりき
千利休の腹を切らせしその真意吾の理解は終に及ばず


  福 岡 添田 博彬

ステロイド打ち嘔気止め打ち抗癌剤排出促進の生食水打つ
許され得る希釈と速度と理解してまた耐へゆかむ点滴三時間に


  さいたま 倉林 美千子

その心知り得てゆつくり立ち上る今までも独りこれからも独り
秋篠に苺を豆を培ひて「文明が門」と誇りたまへり


  東 京 實藤 恒子

諸鳥の声もしづまり天の岩戸を閉ぢしがごとく暗み来りぬ
皆既日食をオーストリアに賭けし君の孤独を決断を今にして思ふ



(以下 HP指導の編集委員、インストラクター)

  四日市 大井 力

耳成の方に水脈引き渡る蛇日の傾きて逆光のとき
暮れ残る空に耳成裾をひくむらさきだてるかたちやさしく


  小 山 星野 清

安田講堂真正面にして七十年安保思ふは老いの感傷か
権力の象徴とも見し安田講堂に宇井純を称ふる人らあふれぬ 


  札 幌 内田 弘

蛸の足を摘まむと寄せゆく吾が箸の少し酔ひをりするりと逃げぬ
朝遅きひとりの卓の頼りなし余しし酒が無造作にある


  取 手 小口 勝次(HPアドバイザー)

土地土地のガイドをしてくれし女性たちドイツに嫁ぎ強く生きゐる
かつて吾が勤めし職場の人に請ふちぎれし万円札を新札に替ふを


先人の歌


樋口賢治『歌集五月野』より




花畔(ぱんなぐろ)過ぎて石狩川の水ひかる並木の下にしばし立ちたり
雪ふぶく野に立ちひとり思ひさらず防寒靴はきし小学生の日を
地ふぶきのしきりに立てる野の道を歩める一人まぼろしに似て
けふ吾の足をつつめる毛の靴よ過ぎて幼き日を恋ふと言ふや
たはやすき五十五年といふならず吾があくがれの何なりしかな


樋口賢治の昭和四十六年(六十三歳)の作品、亡くなる十二年前のものである。生まれ故郷の北海道にはしばしば足を運びその都度叙情性ゆたかな作をものにしている。この作は石狩川の冬の河口を尋ねての歌。五十五年前の幼いころの回想が甘酸っぱくのべられている。人は幻覚のように回想というものを持ち続ける。このころまだ作者は自分の身を犯す病のことはしるよしもなかった。
                     

バックナンバー