作品投稿


今月の秀作と選評



 (2007年9月) < *印 新仮名遣い>

大井 力(新アララギ編集委員)


秀作



ひ で

子の足は既に我より逞しく槍への尾根を遠ざかり行く


評)
成長してゆく子にふっと気がつく、その瞬間の思いが感動とともによく把握されている。恐らく子は振り返らないのであろう。ふっと寂しさがよぎるこころの襞が手に取るようにわかる。いい歌である。



新 緑


五年間まひせし我の足の指動くようごく五本すべてが


評)
長い闘病生活のなかにこういう喜びの瞬間がある。これは吾々共に歌につながる縁を共有するものにとっての喜びでもある。結句に作者の躍るようなこころの叫びがある。やはり実感の歌は強い。おそらく前後の歌から毎日のたゆまないリハビリに根を詰めての結果であろうことは想像に難くない。



イルカ


同じ事幾度も聞きては頷いて記憶おぼろの母となりたり



評)
親子の別れは何れ訪れる。その予感に裏打ちされた寂しさがひしひしと伝わる。結句にそれが如実に現れている。「頷いて」と口語にする必要はないが、この場合はあまり苦にならない。叙情味ゆたかにのべられていて作者に力量がわかる。



吉岡 健児

五十年変はらぬ味の饅頭を作り持ち来る母の背丸し



評)
この月の一連は母の手作りの饅頭の関わる心情が豊かに述べられていてそれぞれにいい味わいをだしている。なかでもこの一首がいい。初句が饅頭と母への心情が格別によくでている。老いて行く母に姿とふるさととの甘酢っぱい情感がいい。



栄 藤

赤飯にて葬らるる齢に至りしと気づきしときに少しうれしき



評)
初句は「葬(はふ)られて赤飯炊かるる年齢に至ると気付き・・・」としてもいいのだろうが、この原作でもよくわかる。ある年齢に達した作者の偽らざる心境が読むものにしみじみと伝わる。なにか複雑な心境の結句をさらに考えるとさらによくなる歌である。



斎藤 茂

校庭を百周競ひ走りにき友のみ墓に酒を注ぎぬ



評)
墓に素材を求めることは難しいとコメントしたが、この歌は上の句により生きた。ふるさとはあまく懐かしい、ましてや子供のころの友人はふるさとそのものである。先立った友人への思いが切々とでていていい。


佳作



英 山


夏祭りに過ぎにし若き血が騒ぐ路上ライブのジャズとフォークに
祭りの締めに地元踊りを促せどたちまち離るる若者の群れ



評)
祭りの素材を捉えるのに、懐かしさとかふるさとへの思いなどの情緒でとらえるのが普通であるのにこの作者は新しい祭りに工夫をこらすふるさと、ふるさと興しに必死になる吾が町を描いている。作者の作歌勘のよさを如実にあらわしていよう。



イルカ


美容師をめざし働く子の指のシャンプー剤に荒れて傷みぬ



評)
秀作にしてもいい一首、初句は「美容師をめざして」とすべきだろうがこの一首には子を思う気持ちが前面にでていていい。単純なのが強い。



ひ で


またひとつ歳を重ねて立ち尽くす至仏の山頂風吹き止まぬ



評)
秀作に押した一首と併せて読むときこの歌がまた生きてくる。ひとは否応もなく齢を重ねる。時間を削って生きている。そのあせりのようなものを作者も感じているのであろう。揺らぐ心情が余すなくのべられていい。ただ、結句はまだ工夫の余地があろう。



けいこ


市議会の移転論議を経て進む病院の工事鳴り響く夏



評)
決定稿に示されたこの一首は推敲課程で、作者の家に迫るという内容が変って来た。それで「鳴り響く夏」という一般的な表現になったのは惜しい。



新 緑


麻痺の手指かいふくの反復練習を百まで数うるベッドに起きて



評)
療養の切迫した心情が具体的に述べられていい。この心情を述べるのにマンネリにならないように工夫することはまた大変であろう。今後の努力に期待しよう。



斎藤 茂


家業なりし魚屋の日々語りゐる姉のしぐさに母の面影



評)
物語性の強い歌だが、作者の思いが溢れていつので救われた。



栄 藤


八十にて視力失ひ心臓病み父は治療を拒みて逝きぬ



評)
この歌も素材の目立つ歌だが、作者の思いが強いだけに歌が成立している。父への思慕はかく、淡くせつない。



むぎぶどう


野良犬の後ろを歩くわれもまた犬であるかと尾を振ってみる



評)
一見、歌らしく作ろうとしていないのがいい。この作者にはなにか強い個性を感ずる。野良犬に自分を見るというのは自我そのものであろう。その自我が本当になにものであるか、見極めたい個性である。



仲 山


早朝のホームの駐車場下りてみる小鳥も鳴きし忘れいたこと



評)
ようやく五首纏まった感じがういういしい。なかでもこの一首がいい。「ホームの駐車場に」と丁寧に詠むほうがいい。ありのままでいい。ありのままほど難しいことはない。


寸言


選歌後記

どのように渇きを掬いとるか(選歌後記雑感)

歌を身の回りからきりとることが吾々の精一杯の作業であることは論を俟たない。
しかし「何を」「如何に」というふうになったとき誰もが迷う。生活は一見満たされているかに思える。しかし作者の気付かない渇きがだれにも潜んでいよう。ほんの一瞬の思いの渇きをいかにこの熟しきった時間からきりとるかが問題であろうと思う。しかも情緒ゆたかにというところがまたやっかいなのである。


           平成19年9月25日
           大井 力(新アララギ編集委員)


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