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今月の秀歌と選評



 (2014年8月) < *印 新仮名遣い>

大窪 和子(HP運営委員)



秀作



きじとら


三年過ぎ見えぬ放射線を忘れたかのような暮らしに逃げている我


評)
歌の流れに少しぎごちなさはあるが、結句に現実感がある。誰しもが持っている後ろめたさのようなものを自分に引き付けて端的に掬い取った。




慶びを花のカードに筆で書く移民四世の結婚式に



評)
ハワイ在住の作者、「移民四世」に重みがある。初稿には習い始めた書道でということが入っていたが、一首の中にポイントを幾つも入れるとうまくいかない。筆で書くことで充分味わいが出た。



ハナキリン


白きもの窓から見えて風に乗りふわり木立の間を抜けゆく



評)
不思議な雰囲気のある歌。鳥か風船かなどと詮索する必要はない。読む者をふとやさしい世界へ誘い込んでくれる。



時雨紫


紫陽花の絵柄の着物に風通しナフタリン消え母の香残る



評)
作者独自の体験を歌にして味わいがある。このような昔ながらの風習も着物文化の衰退によって減っていくのだろう。母上への思いと共にさまざまな内容を感じさせる一首である。



金子 武次郎


今日もまた三人揃って頭下ぐ詫びの儀礼にスイッチ切りぬ



評)
私たちが昨今うんざりしている光景。結句は感情的な言葉でなく作者の動作できっちりと閉めたところがいい。



波 浪


シャットダウンしてディスプレイ消えしときふと現れしわが老いの貌



評)
ディスプレイは時として暗い鏡のようになることがある。その中から自分の顔がこっちをむく一瞬、どきっとする。面白いところを捉えた一首である。



栄 藤


老い少し見ゆる妹の横顔に亡き母浮かぶ刹那がありぬ


評)
肉親の中でこのような感情を持つことはありがちなことだが、「横顔に」と捉えたところに味わいがある。作者がひそかに思っている感じが伝わるからだ。



くるまえび


五年だけと辞令を受けての渡米からふと気がつけば五十四年か



評)
結句は「五十四年も」となっていたが「も」を疑問の助詞「か」にしたほうが感慨が深まる。「ぞ」という強調の助詞を使ってもいいと思う。坦々と表現されているが内容は重い。



ハワイアロハ


梅雨晴れに父母の布団をベランダに干して額の汗を拭えり


評)
ハワイから一時帰国して親孝行をしている作者。心の温もりと喜びが伝わってくる。



紅 葉


桃売りは来たかも知れず後悔で起き出す朝は飲み過ぎた朝


評)
何で桃売りなのかよく分からないが、不思議な味のある歌。二日酔いの朦朧とした朝の気分が伝わってくる。     


佳作



栄 藤


千切れたる翅打ち振るひ立たむとす蝶まもりつつなす術のなし



評)
はかないものに目を留めて哀しみが感じられるが、「なす術のなし」はいうまでもない。一工夫を。ロジンバックの歌も面白い。



波 浪


艶のなく皺深まりて笑まひゐる妻の顔をば曇らせてはならぬ



評)
飾り気のない表現で、作者の覚悟が微笑ましく伝わる。



ハワイアロハ


スカートに風をはらませ学生らの自転車群れて追い越しゆけり



評)
若々しい動的な場面がうまく捉えられている。



くるまえび


百年を継承されし短歌の道ハワイの地にて広め行きたし



評)
共に学んで行きましょう。頼もしい。



時雨紫


ドクダミの小花の白く蔓延れる母なき庭に桔梗見つけたり



評)
亡き母上からの呼びかけのように感じられたのだろう。



ハナキリン


湧き水を自ら汲んで落としたるコーヒーの香の豊かに清し



評)
湧水とコーヒー、いかにも美味しそう。結句が説明的で惜しい。


参考



石川 順一


懸垂をしている人の柿の木に執拗にぶらさがり続ける幻影



評)
「映画」は本当は映画ではないとのこと。それでは作者にしか分からないことだから「幻影」としては?



寸言


 作歌とは、57577という器の中にどのように言葉を盛るかということだと思う。端正に色も形も整って皿に盛られた料理はうつくしい。しかし、少しはみ出して危うい均衡を保っている料理も美味しそうで食欲をそそられたりする。短歌も同じで、そこに個性が生まれる。

 歌が出来た時、声に出して繰り返し読んでみると、言葉がどのような形で器に盛られたかが分かる。とりあえず均衡が保たれていると思えれば必ずしも定型に拘る必要はない。けれど定型から野放図になることのないように、いつも心にかけている必要はあると思う。

〜大窪 和子(HP運営委員)



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