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(2015年11月) < *印 現代仮名遣い> |
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大窪 和子(新アララギ編集委員)
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秀作 |
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○
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鈴木 政明
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予算会議に姑息なことを述べし悔い朝の目覚めにまた甦る
タッチパネルは土産メニューに変りたり指先に浮かぶ家族の笑顔 |
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評)
一首目、職場での失敗に捉われている作者に共感できる。殊に二首目がいい。旅先でスマホを操作して家族に土産ものを選ぶ様子が明るく伝わる。「指先に浮かぶ」に現代が感じられる。 |
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○
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ハワイアロハ
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真珠湾にかの日沈みしアリゾナ号より七十四年経てもオイル浸み出す
資料館に「禎子の折り鶴」加わりて真珠湾に満つ平和への祈り |
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評)
一首目、そんなことが今でもあるのかと驚く。これも戦争の傷跡であり胸が痛む。二首目にも驚きがある。広島の平和公園に集められている禎子の千羽鶴が、真珠湾にも!こちらは心の温まる歌で、二首ともにハワイ在住の作者の確かな眼差しが感じられる。 |
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○
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まなみ
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暗くなると畑に這い出すカタツムリ体をにゅっと出し新芽を貪る
初なりの胡瓜の棘を指先に感じてチョキンとつるから離す |
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評)
畑仕事の現場が作者の感覚で鮮明に捉えられて魅力のある作品になった。カタツムリの動きとその食欲が目に見えるようだ。また指先に感じる胡瓜の棘、鋏の音が聞こえてくる。 |
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○
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きじとら
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妻と植えし花々は今咲き盛る一年草の限られし時間を
いつの日かこの身の果てるとき思うそのとき誰が傍に居るだろう |
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評)
一首目、「時間」は「とき」と読みたい。花の盛りにその短いときを思う感覚には深い。内容は違うが二首目にも同じ思いが繋がっていると感じられる。読む者をふと立ち止まらせる力がある。 |
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○
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ハナキリン
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午後四時の境内に鈴を響かせて背広の人のすっと立ち去る
笑いたるかぼちゃを標に道戻る万聖節のニセコに迷いて |
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評)
一首目、不思議な感じのある歌。下の句に作者独自の捉え方がある。しんとした境内を立ち去る人、見て居る作者の、ふとしたさびしさが伝わってくる。二首目は楽しい歌。「ハロウィン」と普通にいった方がいいかもしれない。三首目も、もうひと頑張り! |
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○
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時雨紫
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子を亡くしし親の無念が書の上にたぎりてわれの胸締め付ける
大筆に銀の墨液なみなみと紺地に下ろす「凛」の一文字 |
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評)
書を見て感動し、その思いを表現しようと挑戦している姿勢、とてもいいと思う。一首目は作者の感動した様子が伝わる。二首目は紺地に書かれた「凛」の字がくっきりと浮かび上がってくる。 |
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佳作 |
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○
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笹山 央
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列島をおおう雨雲糊付けが今日もできぬと天気図を見る
会心の帯織り上げれど売り先が決まらず顧客のリストをめくる |
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評)
織元の仕事に携わるとのこと。一首目は天候に左右される仕事の苦労が、二首目ではどんな素晴らしい帯でも商品であるという現実が伝わる。作品の題材が独自で魅力的だ。 |
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○
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金子 武次郎
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真夏日は猛暑日よりもまだいいと和服の女(ひと)の襟元直す
サンダルに這い上がり来し蟻一つ下りるまでじっと立ちて待ち居き |
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評)
一首目、和服の女性の振る舞いに一瞬の涼が感じられる。二首目は、小さな蟻の存在とひととき対峙しているような情感が漂う。二首とも何気ない事柄を詩としてすくい取っている。 |
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○
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紅 葉
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「柏原」と特急券を買えるのも今のうちかな出張に行く
子の出ない試合見に行く楽しみはきみといっしょにいることくらい |
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評)
一首目、おそらく定年がそう遠くない作者であろう。切符を買うときに感じたちょっとした感情をさらりと詠っている。二首目は「きみ」を特定していないが、なんとなくわかる。この歌はそれでいいと思う。 |
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○
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夢 子
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ガタガタのボロ戦闘機に載せられて死にに行きたり若き特攻兵
安曇野もアルプスさえも目に入らずただ飢えておりぬ疎開っこの私 |
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評)
幼くとも戦争を体験した日本人が胸の奥に保ち続けている事柄で共感される。しかし捉え方が少し一般的であることが惜しい。特攻兵のことを知ったとき貴女の心にどのようなことが起ったか? 飢えるということの実感は? |
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○
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くるまえび
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忘れ得ぬ玉音放送聞きしとき地にひれ伏して泣きし父母
荒波を乗り越え着きし宇品港家族で抱き合い帰国を喜ぶ |
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評)
二首ともに今を生きる私どもの原点にあった事柄だが、歌としてはあまりに知られ過ぎていることを真っ向から詠うのは不利である。その時の作者の心は? 竹槍訓練の歌、もう少しこだわってみてほしかった。 |
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● |
寸言 |
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歌の素材は限りなくあるようでいて、生かすのは難しい。今年は終戦後70年ということで戦争体験の歌がこのサイトのみならず多く詠まれている。そこで大切なのは過去の事柄をそのまま詠むことより、今その風景がどのように見えるかということだろう。その思いが歌の背後に感じられると作品に深さが生まれる。そのためには素材の選択も重要であろう。
必ずしも戦争体験を詠う場合だけではない。思い出は大きな歌の素材だが、今ある自分の目を忘れてはならないと思う。
大窪 和子(新アララギ編集委員)
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