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低 し (その一)
「高し」に対する反対語は「低し」だと誰でも言うだろう。しかしこの「低し」は、古代の日本語には存在しなかった。いつかある語源辞典(角川書店発行のものだったと思う。)を店頭で立読みしたところ、イヤシ(卑し)の説明を、イヤヒクシを略してイヤシとなったとあるのを見てあきれた。万葉に「卑しきあが身またをちぬべし」などとあるイヤシがイヤヒクシから出たなどとは、徒然草に言う小野道風の書いた和漢朗詠集の話よりもっとひどい時代錯誤と言わなくてはならない。
岩波古語辞典で「ひくし」を引くと、「ひきし」の転とあり、「ひきし」の項のところでは、「平安時代まで、漢文訓読ではヒキナリが使われた。仮名文ではヒキシ・ヒキナリ共にその確かな例はなく、ミジカシ・イヤシなどを用いていた。室町時代頃からはヒクシという形が使われるようになった。」と説明している。少し言葉が不足であるが、ヒキシは鎌倉時代、ヒクシは室町時代から使われるようになったということだ。大言海等で源氏物語等のヒキシの用例を挙げているのは本文の誤写によると言う(これは松尾聡著「随筆語典あいうえお」などの説明で知った)。なお背の低い人という意味のヒキヒトという語がある。
日本書紀の神武紀に「身(むくろ)短くして手足長し。侏儒(ヒキヒト)と相類(あいに)たり」などとある。するとヒキヒトとヒキシは関係がありそうである。だがとにかく万葉時代にはヒキシ、ヒクシの用例はないのだから、イヤシをイヤヒクシの略語などと言ってはなるまい。
それでは「高し」(視覚も身分も含めて)の反対語は古くは何であったか。「短し」である。(身分にはイヤシを使うこともあった。)先に引いた書記の「身短くして」とあるのがそれだ。岩波古語辞典に「平安時代までは『低(ひき)し』という語がなかったので、『高し』の対にも使われた」とある。「高き低き」の意で「高き短き」と並べる例は枕草子や源氏にあるが、引用は割愛する。
とにかくこの「低し」(ヒキシ、ヒクシ)は、中世になって発生した。散文上の具体的な例もここで引く必要なあるまい。この「低し」が詩歌の世界に入り込むのには年月を要した。そもそも「高し」は歌などに詠まれても「低し」という認識乃至感覚は、歌などに読み込めるものではなかっただろう。はっきり断言はできないが、「低し」をその作品に取り入れたのは江戸時代の俳人が初めてではあるまいか。今、蕪村の句を掲げる。
誰がための低き枕ぞ春の暮
鴫立ちて秋天ひききながめかな
床低き旅のやどりや五月雨
背の低き馬に乗る日の霞かな
低き木に鶯啼くや昼さがり
屋根低き宿うれしさよ冬ごもり
なお蕪村の判した句合(「十番左右合」)に門人、江森月居の「鹿啼くや宵月落つる山低し」がある。捜せば蕪村の周辺の俳人の作にはまだあるだろう。蕪村は「低し」という視覚を意識的に生かした最初の人ではあるまいか。芭蕉には「丈六にかげろふ高し石の上」の如き句はあっても、「低し」を詠み込んだ作はないようだ。連句などにはあるかも知れないが。しかしこの「低し」は、「高し」に対してみやびの要素が少いだけ、より俳諧的と言えそうである。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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寸言 |
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掲示板投稿作選歌後記
文法のこと。言葉づかいについて、文法の誤りがあれば訂正しますが、文法のことにそれほど神経質になる必要はありません。作歌にとって文法の知識が優先するとおそらく自由な感動の発現がなくなるでしょう。勿論歌は正しい文法によって作られる必要がありますが、作家の過程で次第に身につくように、という程度に考えたらよいでしょう。「まず文法から」と考えるのはよくありません。土屋文明の歌に「日本語の文法の本をたづね来ぬかまはず歌へとわれ答へにき」というのがあります。アメリカで歌を詠む日本人二世が文法の本を教えてほしいと言ってきたのに答えたものです。真実を詠むことを第一に心掛けたい。
小谷 稔(新アララギ選者)
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