短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

かつこう・くわくこう

 白雲の下(お)りゐ沈める谿あひの向うに寂しかつこうの声

 赤彦の「太虚集」の一首である。この歌の「かつこう」を、阪本幸男氏の「初出校異島木赤彦全=歌集」では「くわくこう」と訂正した。それに対する不満を私は本年一月号のアララギで述べたが、もう一度ここに書くこととする。

 「かつこう」は、勿論啼き声をそのまま名詞にしたのである。郭公と漢字をあてれば、郭の字音はクワクであるから、「くわくこう」となるだろう。しかし作者が「かつこう」と仮名書きしているのに「くわくこう」と書き改める必要はない。赤彦の最終歌集の「柿蔭集」には「二つゐて郭公(くわくこう)どりの啼く聞けば谺(こだま)のごとしかはるがはるに」というのがあるが、原作表記は「郭公(かつこう)」である。これは赤彦没後の編集、出版であるため、編集者が手を入れたのである。漢字の場合はそうしてもいいかも知れないが、仮名書きは何も漢字音に合わせて「くわくこう」とする必要はないのだ。茂吉も、漢字で書く時は「わが心あはれなりけり郭公(くわくこう)もつひに来啼かぬころとしなりて」(白き山)と記したが、仮名書きの場合は「かつこうの声の遠そくあたりより果敢(はか)なきがごと狭霧(さぎり)霽れたる」(寒雲)としているのである。

 ついでに字音仮名遣について一言する。前にこの「雑記」で触れたのにまた書くが、漢字でスイ・ズイ・ツイ・ユイ・ルイと発音するものは、それぞれスヰ・ズヰ・ツヰ・ユヰ・ルヰとするのが仮名遣として正しいと、戦前私どもは教えられた。水泳、遺言は、ルビを振るならスヰエイ・ユヰゴンであった。随筆はズヰヒツ、対句はツヰクであった。こういう仮名遣を覚えない人々を心中ひそかに軽蔑したものだ。ところが、このスヰ・ズヰ式の仮名遣は誤りで、今ではスイ・ズイ式が正しいということになった。これはもともと本居宣長が「字音仮字用格」という本で中国の音韻を誤解してスヰ・ズヰ式が正しいと言ったところから、誤りがひろまった由である。昭和三十年初版の広辞苑では、まだ旧説に従っている。その後の二版以下は、新学説に従ったが、その変更については一言も触れないのは不可解である。

 岩波文庫本の土屋文明歌集の巻頭歌「この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず」の「睡蓮」は、従来「睡蓮(すゐれん)であったのにルビを「すいれん」と訂正したのは、戦後ひろまった新学説に従ったのである。だから「すみれの類(るい)」なども、るゐ→るいと変っている。この岩波文庫本の後に出版された「青南後集」も、文庫本と統一をはかった。

 字音仮名遣は、現代では奇妙きてれつな仮名遣である。方法の方はハウだが、方円の方はホウが正しいと言う。実にばかばかしい。本当はこんなものに振りまわされるべきではない。意尽くさず。

                      (昭和63・12)

        筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 より良い作を目指すのは誰しも同じ思いであろう。そこでどうすればいいかという事に誰もが突き当たる。そんな時いつも原点に戻る意味から、いつも考えることがある。それは表現を洗練させ、言葉を練り上げる技術を磨くというより、対象に向かう心が「どれだけ豊かになれるか」が鍵だと思う。そして「何が自分の心ににあるか」を見詰め直すことも重要だと思う。よく見詰めても、「豊かな心」と「心のなかに何を持つか」がないとポイントが定まらない。まさに「どう切り取るか」の基本がそこにあるように思う。
 このHPの作品の水準が確かに上がったのを実感するにつれ、更にお互いに磨きあうためは、こんな事も必要と思った。
                    大井 力(新アララギ編集委員)



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