「言へなくなりて」
茂吉の「赤光」の「おくに」の連作の第一首に
なにか言ひたかりつらむその言(こと)も言へなくなりて汝(なれ)は死にしか
という歌がある。全体が口語に近い言い方で、「なにか言ひたかりつらむ」という一、二句もなかなか大胆であるが、今は四句の「言へなくなりて」の部分だけを問題にしたい。ここは「言へなくなって」と言う口語を文語風に言い換えただけの表現である。
「言ふ」のような四段活用の動詞に対して「言へる」という下一段活用の動詞を可能動詞と言う。「読む」「書く」に対して「読める」「書ける」が可能動詞である。この可能動詞は、元来口語だけにあるものだ。だから「言へなくなりて」は口語風なのである。文語的に言うなら「言ひ得ずなりて」とでも言えばよいだろうと思う。この可能動詞の言ひ方は、室町時代から発生したようで、江戸時代の後期には広まったという。勿論口語のなかでのことである。江戸期の歌人の和歌にこの可能動詞を用いたものは殆どないのではなかろうか。
崩れた口語として意識されていただろうから。
明治以降も多いとは言えないが、まま見つかる。
空瓶に煙草のほくそ払ひたる心あやしく笑へざりけり
赤彦の「切火」の一首。「笑はざりけり」ではなく「笑へざりけり」である。つまり笑うことができないという意味である。
うつりはげしき思想につきて進めざりし寂しき心言ふ時もあらむ
文明の「山谷集」の一首。「進めざりし」と可能動詞を使っている。「進まざりし」ではないのだ。
以上の「言へなくなりて」「笑へざりけり」「進まざりし」の三例は、いずれも可能動詞の下に打消の形を伴なっていることに注意したい。こういう形にすれば文語風になる。「言へる」「笑へる」「進める」という口語のままでは使いにくいのである。
近頃の短歌には一般に口語的色彩が強くなっているから、注意すればこの可能動詞も多く見つかるだろう。今朝の読売新聞には「のちの世にめぐり逢ふとも思へねば母の落ちたる瞼を撫づる」(斎藤史)が紹介されていた。第三句がそれだ。
煙草の葉にうづくまりゐし雲雀の子われに驚く飛び立てなくに
アララギ昭38・11.・選歌欄
東京まで来りて安居会に来れざる岡田真の病をききぬ
アララギ昭38・10
前のは「飛び立たなくに」ではなく「飛びたてなくに」で、「なくに」という古い形に可能動詞が侵入したもの。あとのは第三句はコレザルと読むのだろう。「来る」はカ変の動詞だから、「来れる」というのは、口語でも破格で、いやな崩れた言い方なのである。それにザルをつけて「来れざる」とはああ。前のは許せても、こっちはだめだ。しかし選歌をパスしてしまった。 (昭和61・3)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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