短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

鳥ども・鳥たち

  この二月の或る朝のこと、民放のラジオを聞いていたら、フランスの俳優アラン・ドロンが来日したことを告げて、「飛行機には大勢の女性どもが出迎えて」といって「アレ、イケナイ女性たちが」と言い直した。「女性ども」という言い方は差別語として、今はアナウンサーの間では禁句になっているらしい。そういえば近頃は、「手前ども」とか「私ども」というような謙譲語もあまり聞かないし、「女ども」などと言うと、やはり蔑視のひびきがあって、工合が悪いようである。古事記の歌謡に

 大和の高佐士野(たかさじの)を七(なな)行くをとめども誰をしまかむ

というのがある。神武天皇が皇后を選定する際の大久米命の歌だと言う。古事記の今の注釈書を見ると殆どが「大和の高佐士野を七人で行くおとめたち、その中の誰を妻としようか。」という口語訳をしている。「をとめども」は「おとめたち」としないと落ちつかないのであろう。

 しかし本来「たち」は、主に神仏や貴人に用いられた複数を表す接尾語であった。「玉ぼこの道の神たちまひはせむ」(万葉)「阿のく多羅三みゃく三菩提の仏たち」(新古今)「わが女みこたち」(源氏・桐壺)等、古典の例を挙げたら、きりがない。「平家の君達(きんだち)などというのも、その中に入る。つまり尊敬表現に使う接尾語で、「ども」や「ら」より、高い位置のものに使うのが日本語の鉄則であった。現在でも「たち」と「ども」とは距離を保っている。「女性ども」といっては失礼で「女性たち」と言いかえないといけないようになったが、しかし神仏や貴人に限るというワクはとうに取り払われてしまった。

 芭蕉一派の俳諧集の「猿蓑」の中に「鳥共も寝入ってゐるか余吾の海」(路通)という句がある。去年の秋この余吾湖のほとりの民宿に泊まって、俳句をやるというそこの主婦にこの句を話題にしたら全然知らないのでこっちがびっくりした。さっそく町の有力者に話してみると言っていたから、今に句碑でも建つかも知れない。その時は私も招待される資格がある。作者の路通は乞食をした俳人だと言うが、「鳥共」と言うところは、ちゃんと日本語の伝統を守っているのである。

 ところが、今は「たち」の範囲が拡大されて、人間はおろか他の生物たちにも「鳥たち」「虫たち」「魚たち」「花たち」と使われて一般化してしまい、「雲間から星たちが現われ」などという文にも出会う御時世となった。「鳥ども」と言っては鳥に失礼になるのである。歌のなかにも「渡り来てひと時憩ふかかの川に浮かぶ鳥たちの安らげるさま」というように歌われる。(これは最近のアララギ歌稿から拾った。)近藤とし子さんの歌集に「小鳥たちの来る日」がある。私の結論。せめて鳥や虫や魚に対しては、「たち」を使いたくない。それらに失礼であっても。

 追記 古事記ではよくない神に対しては「荒ぶる神ども」と、どもを使って詠んでいるところがある。
                           (昭和61・6)


           筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 ご自分の作品に対する批評ばかりを読んで、他の人のをほとんど読まない人が    いるようです。すぐ前で他の人の歌で申したことと同じ問題を繰り返していることが間々あります。同じことでも敢えて私はするのだというのなら、それはそれでよいのですが、そうではなく、全く読んでいないのではいけません。「他山の石」という言葉があります。「人のふりみて我がふり直せ」という言葉もあります。歌会と同じです。二時間の歌会で自分の歌の扱われるのは、せいぜい三、四分です。あとはなんにもしないのですか。残る時間は他人の歌についての批評を一生懸命聞くのです。そこから得るものは実に多大です。

                 吉村睦人(新アララギ編集委員・選者)



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