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子ども
特別に歌言葉というのではないが、今月は「子ども」という言葉を取り上げたい。万葉集巻5に山上憶良の有名な「子等を思ふ歌」がある。その小型の長歌を引く。
瓜食めば子ども思ほゆ、栗食めばまして偲はゆ
いづくより来りしものぞ、まなかひにもとなかかりて
安寝しなさぬ (802)
この初めの1、2句の口語訳を見ると、岩波古典体系の万葉集には「瓜を食べれば子どものことが思われる。」とあり、土屋文明「万葉集私注」も、沢潟久孝の「万葉集注釈」も、そこは殆ど同じである。つまり「子ども思ほゆ」の「子ども」は、そのまま口語訳にも使用されている。この点にちょっと異議をさしはさみたいのである。万葉集の「子ども」は、現代語の「子供」というのとはちょっと違うと思う。上の長歌の題に「子等」とあるように、ここの「子ども」は「ども」が接尾語になって複数を表すので、今の言葉で言うなら「子供達」と言わなければならない。だから「いづくより来りしものぞ」と言い、「まなかひにもとなかかりて」と言う時、作者は一人の子供を思い浮かべているのではなく、二人以上を眼前にちらつかせているはずなのである。
巻5の憶良作にはまだ「子等を思ふ歌」がある。
すべなく苦しくあれば出で走り去(い)ななと思へど子等に
障(さや)りぬ (899)
富人の家の子どもの着る身なみくたし棄つらむ絹綿らはも (900)
等で、ここでも「子等(ら)」と「子ども」は同義語なのである。そのほか「いざ子ども」と、大勢に呼びかける用法も憶良を含め万葉集に幾つかある。要するに万葉集などの「子ども」は、「あまをとめども」などと言うのと言うのと同じで、現代語の「子供」などと違って、あくまで複数の意識のもとに使われているとみるべきである。それが単数複数に関係ない、ただ子というのと同じ意味、つまり「子供」の意味使われるようになったのはいつ頃からかは知らないが、「源氏物語索引」を引くと、「子ども」に関係ある語は「子どもあつかひ」一語のみである。これは「子供の育て方」というような意味で、もう複数意識はない。
さて考えてみると、日本語にはこの「子ども」のように、もとは複数を示す語なのに、その複数の意味をそぎ落としてしまうものが幾つもある。「友達」はそのいい例で、一人でも友達であり、友人と」いうのと同じだ。「公達(きんだち)」「若衆」「兵隊」など。まだまだ捜せばあるだろう。
今回は、直接作歌に関係ない話になってしまった。なお初めにあげた「瓜食めば子ども思ほゆ」の歌の「子ども」を、はっきり複数として解している注釈書は、勿論あるので、それはいちいち書名をあげなかった。
(昭和62・5)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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寸言 |
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改作と推敲
今月は熱心な投稿と何度も改作をして投稿する人たちで、とても遣り甲斐があった。真剣に自作に立ち向かう気持ちが伝わってきて気持ち良く添削が出来た事を感謝したい。今後も真剣な作歌に是非励んでほしい。そんな、皆さんの様子を来月のインストラクターの吉村睦人氏が「新アララギ」7月号に取り上げてくれている。是非、一度見て頂きたい。「新アララギ」の発行所に問い合わせると、バックナンバーがあるので、購入出来ると思うので、問い合わせると良いと思う。
余程のことがない限り、短歌には自己解説、自己弁明は不要である。
説明をしなければ分からないのでは、独立した作品ではない。
一首一首が勝負のすべてである。
(「新アララギ」7月号「歌壇座標」167ページより抜粋)
雁部 貞夫(新アララギ・選者、編集委員)
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