短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

「すゐれん」と「すいれん」

 土屋文明第一歌集「ふゆくさ」の巻頭の歌は、よく知られた
 
 この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず
 
 という可憐な作品である。この歌集は、漢字にはすべて仮名が振ってある。つまり総ルビである。右の歌の睡蓮には「すゐれん」とあり、これは後の自選歌集も同様で、角川文庫の「土屋文明歌集」(改定の初版、昭46)にも「すゐれん」となっている。
 
 ところが、岩波文庫の「土屋文明歌集」(初版、昭59)では、睡蓮のルビが「すいれん」になっている。この岩波文庫では、ほかにも水門・水瓜・水槽・水気の水のルビは、それぞれ「すゐ」であったものが「すい」となり、さらに「すみれの類」の類は「るい」から「るゐ」、瑞雲の「ずゐ」は、「ずい」と訂正された。この点につき、土屋先生にうかがったところ、岩波書店の方針に従ったと言われた。

 私どもは、戦前にスイ・ズイ・ツイ・ユイ・ルイと発音する漢字の仮名遣、つまり字音仮名遣は、みなスヰ・ズヰ・ツヰ・ユヰ・ルヰと書くのが正しいと教えられた。だから出(スヰ)納・随(ズヰ)筆・一対(ツヰ)・唯(ユヰ)物・種類(ルヰ)が正しく、「ゐ」を「い」と記すのは誤りだと信じて疑わなかった。事実、茂吉歌集でも文明歌集でも、それは厳重に守られていた。戦後に岩波の古典文学大系が出た時、その万葉集をみると類聚歌林の類のルビに「るい」とあるのを見て、岩波ともあろうものがどうしてこんな誤りをおかしたのかと疑ったほどだ。しかしこれは学説の推移に気づかないためであった。

 三省堂の新明解国語辞典の「あとがき」に「昨日まで誤りとされたものが次の日からは大手を振って罷り通るようになる。くつがえり易いのは人心ばかりではない。」として、仮名遣を種々論じて、そのなかにスヰ・ズヰ以下の字音の学説の変化を紹介している。ここに今具体的に書けないが、要するに中国の音韻史の研究によってスヰ・ズヰ以下は、スイ・ズイというように記すのが正しいとされるようになったと述べている。歴史的仮名遣としても、睡蓮は、スイレンが正しいことになってしまった。

 岩波の広辞苑の第一版(昭30)には、睡蓮はスヰレンという字音をも示していたが、第二版(昭44)では撤回してしまった。すべて新学説に従ったのだが、凡例でそれを一言もことわっていないのは、不可解である。

 さて、この字音仮名遣という奴、誰でも知っているようにこんな煩瑣な面倒なものはない。それは和語の仮名遣の比ではない。全くばかばかしいと言っていい。スヰ・ズヰの類がスイ・ズイになるだけでも、それは救いである。こんな問題から開放されるだけでも、新仮名遣のほうがいいとも言えるのだ。
                             (昭62・7)

          筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


 この四月から新しい仕事につき、六月はいくらか時間が取れると思いきや、いっそう忙しくなり、ついに一晩か二晩しかパソコンに向えなかった。その間アシスタントの青木道枝さんがよく補佐して下さり、いや補佐などではなくすべてやって下さり、新アララギのネットを絶やさないで下さった。深く感謝し、投稿の皆様にもお詫びをする。よって今回は、投稿の全てに目を通して下さった青木さんに選歌と選評もお願いすることとした。ご了承頂きたい。次回はしっかりやりたいと思っている。
 なお、「先人の歌」の小松三郎は、土屋文明門のアララギの歌人。『門出』という第一歌集は、全編すべて亡くなった子息を追悼した作品よりなる。巻頭の土屋文明の序歌「天にある幼み霊のあそぶらしあさ日かがやくほほの白花」。

               吉村睦人(新アララギ編集委員・選者)

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