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帰らなむ
茂吉の晩年の歌集「つきかげ」にある一首を引く。
しづかなる天にむかひてひびかなむキリストの鐘も仏陀の鐘も
(昭24「一月一日」)
形式的なつまらない歌だが、それは今は問題ではない。第三句の「ひびかなむ」に注意したいのだ。「ひびきなむ」ではなく、「ひびかなむ」とするところに作者の気配りがある。つまりここは「ひびいてほしい」という他者への願望を表わしているので「ひびきなむ」では「ひびくであろう」と推量する意になってしまう。この動詞の未然形につく「なむ」(完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」に推量又は意志の助動詞「む」のついたもの)とはよく混同される。前にも引いた明治時代の本「新案文法正誤法」でも「我帰らなむとすれど止めて放さず」の「我帰らなむ」は、「我帰りなむ」と言うのが正しいと指摘している。「帰らなむ」は他人に誂え望む意で、自分のことならば「帰りなむ」と言うべきなのである。
ここで想起するのは、この「なむ」をめぐっての大正六年の茂吉と三井甲之との大論争である。甲之は、茂吉が初め兄事した人であるが、当時は袂を分っており、はなばなしい論争も行われたのであった。これについての茂吉の文章は「『なむ』『な』『ね』の論」として「童馬漫語」に収められ全集によっても読むことができる。事の発端は、甲之の「北風の吹き来る野面をひとり行き都に向ふ汽車を待たなむ」という歌の結句を赤彦が「待ちなむ」の誤用であると指摘したことから、茂吉が乗り出すのである。甲之は「待たな」に声調上の必要から「む」をつけたなどと言ったので、茂吉が噛みついた。「待たな」ならば「待たむ」と同じで自分の意志になるが、「待たなむ」では通用しないのに強弁したのだから甲之のほうが大いに不利であった。茂吉は古典の用例を引いて博引旁証の大論陣を展開している。今見れば不備の点もあるが、それには触れる必要もない。
ところがかつては茂吉自身も甲之と同じ誤をやったのである。
にんげんは死にぬ此(かく)のごと吾(あ)は生きて夕いひ食(を)しに
帰らなむいま (初版「赤光」明44)
これは大正十年に出した改選赤光では、初句を「うつしみは」とし結句を「帰りなむいま」と訂正した。甲之との論争のあとなので茂吉は冷や汗を流し苦笑しつつ直したことであろう。だがこういう誤は茂吉周辺の人もやっているのだ。古くは左千夫の蓼科を詠んだ長詩の末に「吾は舞はなむ」という句がある。憲吉は茂吉、甲之の論争など知らぬげに「吾がこゑを何処(いづべ)にむきて呼ばなむや広くしづまる飼飯の松原」(軽雷集大14)と詠んだ。それぞれ「舞ひなむ」「呼びなむや」とすべきところであった。
(昭和63・8)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 |
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