短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 い寝(ぬ)・寝(い)ぬ

 岩波古典体系の万葉集によって次の二首を引く。

  夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今宵(こよひ)は鳴かずい寝(ね)にけらしも
  夕されば小倉の山に臥(ふ)すしかは今宵は鳴かず寝(い)ねにけらしも

 前のは巻八の秋雑歌の最初の歌(一五一一)で、岡本天皇(舒明天皇とされる)の御製、あとのは巻九の巻頭歌(一六六四)であり、雄略天皇の御製とするが、岡本天皇の御製という所伝も紹介している。問題のある歌であるが、今は結句の表記のみを取り上げたい。つまり「い寝(ね)」「寝(い)ね」と書き分けてあるのは、へんではないかと言いたいのである。古典大系本のほかの場所を調べると、イネヌアサケ、イネラレズ、イヌレドモというような詞句のところでは、殆ど「寝ね」「寝ぬ」と書かれている。ただ巻十の「明日よりはわが玉床をうち払ひ君とはい寝(ね)ず独りかも寝む」(二〇五〇)だけが「い寝」であり、「い寝にけらしも」と同様の表記になっている。これは不統一である。

 さて基本形のイヌ(寝ぬ)を、小学館の古典大辞典で引くと「寝る。眠る。」として「名詞『い(寝)』と動詞『ぬ(寝)』とが複合したもの。『ぬ』は、特に男女が共寝する意の用例が多いというが、『いぬ』には逆に独り寝する意のもが多いようである。」と説明しているのはおもしろい。『旅衣八重着重ねて寝ぬれどもなほ肌寒し妹にしあらねば』(四三五一)など、たしかに独り寝のわびしさを詠んでいる。ただし初めに引いた二首の「イネにけらしも」は、「今夜は妻を得てもう寝てしまったらしい」という意と見るべきであるから、ここは独り寝ではないのであろう。

 さて万葉集には安寝(やすい)という語やイヲネズとかイノネラエヌニという表現もありイは確かに寝ることの名詞である。ネは動詞「寝(ね)」の連用形であり、イネは寝るを意味する名詞と動詞を重ねた特殊な言葉といえるだろう。漢字を当てる時は、「い寝(ね)」「寝(い)ね」どちらでもいいという論も成立するだろう。しかし「い寝にけらしも」と書くと「い」は単なる接頭語のようにも見える。やはり「寝ねにけらしも」のほうが、穏当で視覚に訴える感じもいいと思う。

 このイネ、イヌを歌言葉として使うことは、万葉以後は少ないようだが、現代では大いに使用される。そして「い寝て」「寝ねて」が入り乱れているが、私は「寝ねて」と書きたい。

 なお茂吉に次の二首がある。

  欧羅波の国の動きを雑然と心のうへに置きて昼寝(ひるい)ぬ
  残年はあるか無きかの如くにて二階にのぼり真昼間も寝(い)ぬ

 「寒雲」及び「つきかげ」の歌。この「寝ぬ」という終止形の使用は茂吉以前に例を見ないものであろう。このイヌはネルという意であって、ネタという意に取るべきではない。(平成2・1)

                          

         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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