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「し」と「る」「たる」(2)
この問題は、いつか取り上げたいとは思っていたが、実は頭の痛い問題で文法学者でもない私には手に負えないところもある。そもそも文語の助動詞では、時(テンス)に関わるものが、「き」「けり」や「つ」「ぬ」「り」「たり」と幾つもあったのに口語では「たり」の後身の「た」一つに統一されてしまい、現代日本語が大変貧相になってしまった。「たり」は「てあり」がつまってできた助動詞で、動詞や状態の完了や持続を本来表すのに、口語では「昨日、雪が降った」と、過去や回想の意味も担う役目も負わせられるようになった。そこに現在の混乱があるのであろう。「た」が過去を表わすなら、もとの「たり」も過去を表わすものとしてしまうのも当然なのである。
ここで脇道に入るが、駅のプラットホームで待っていると、やがてはるかに電車の姿が見える。そのとき「電車が来る、来る」と言う人はまずいない。殆どが「来た、来た」である。まだ来もしないのに「来た、来た」とはこれいかにであるが、これは「来たり」という文語の影をまだ残した言い方なのであろう。「来たり」は、「来つつあり」の意で、現在進行中であることを意味する。それならおかしい言い方ではない。
もう一つ脇道だが、「短歌」六月号の角川短歌賞受賞作「キャラメル」(田中章彦)の最初の一首の、
地上にも地下にも僕を縛りたる透明の糸があるかもしれず
につき、選者の田谷鋭氏が「縛りたる」に触れて「『たる』は完了の助動詞ですから、いまはもう縛っていないということになりますけれども、いまも縛っているんじゃないかという気がするんです。・・・そこらがわずかな難点じゃないかと思いました。」と言われるのは理解しにくい。「たり」「たる」は、完了の意味合いだけでなく、「・・・している」という進行、継続、存続の意味があり、古典なのではそのほうが多いであろう。万葉の「み命は長く天たらしたり」でも「衣ほしたり天の香久山」でも、その意味である。「僕を縛りたる透明の糸」は、そういう日本語の伝統から少しもそれていないのである。(中略)
「た」は過去を表わすにしても「たり」は元来過去を言い表わせないものであろう。「昨日、降った雪」は「昨日降りたる雪」または「昨日降れる雪」とは言うべきではあるまい。どうしても「昨日降りし雪」である。ここに口語の「た」と、文語の過去回想を表わす「き」の連体形「し」とが接近する。
(平成2.6〜2.10)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 |
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