短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 「し」と「る」と「たる」(3)

 助動詞「き」の連体形「し」が、本来は過去の回想に使われるべきなのに、その用法が乱れて現在見ている月を「ゆがみし月」などと言う、いわば「し」の用法の乱れは、近代現代の短歌には氾濫している。いくら声を大にしてソレハマチガイダと叫んでももう止めることはできない。「し」の乱れを気にしていては、茂吉や文明の歌集は一頁たりとも読めないと言っていい。

 白ふぢの垂花(たりばな)ちればしみじみと今はその実の見えそめしかも

 茂吉の「赤光」の一首。「今は」と言って「見えそめしかも」と言うのは、本来はおかしいのだが、現在の読者には違和感をおぼえる者は殆どいないのではないかと思う。しかしこういう使い方が気になる人は、自分で使わなければいいので、いちいち他人の作品に容喙しなくてもいいのではないか。

 「人間土屋文明論」の著者の太田行蔵氏は、今年の二月に逝去されたが、「る」「たる」を使うべきところに「し」を平気で使う歌人どもに大いに警告を発したやかまし屋の老人であった。木島茂夫氏の主宰する歌誌「冬雷」を舞台として執拗に論陣を張った。この「し」の用法につき、木島氏は初め太田氏と言い争ったようだが、「冬雷」の作品は、この太田氏の主張を入れて現在でも「し」の乱れは、殆ど取り除かれているようだ。

 太田氏は、アララギを見ては「し」の用法を気にして、いつも○や×をつけていたと言う。「冬雷」の本年七月の太田行蔵追悼号にも私は書いたが、太田氏はひいきするアララギが「し」の乱れを一向かまわないでいるのに業を煮やして、或る時夫子自らアララギの東京歌会に乗り込んで来た。「一匹狼が落ちぞと君に言はるれど言はでやむべきことにはあらず」という一首を引っさげて。それは昭和四十九年四月の歌会である。その歌会の途中に太田氏は突然質問がアリマスと手をあげて、土屋先生に挑んだ。その時批評される歌の中に「捨てし」という表現があった。次はその問答である。私ははらはらしながらこれを聞いた。

 ○「捨てし」ト「捨てたる」ハ、ドウチガウカオ教エ願イタイ。
 ○両方同様。「捨てし」トイウ行為ニ目ヲ向ケレバ「捨てし」捨テテアル現状ニ目ヲ向ケレバ「捨てたる」デ、目ノ向ケドコロガ違ウダケダ。(と大声)
 ○「し」ト「たる」ガ同様トハイカガナモノカ。コノ件ハマタウカガウコトニシマス。
 ○マタウカガッタトテ同ジコト。
 ○「し」ト「たる」ニツキ、ナオ研究ヲオ願イシマス。
 ○研究スル必要ナシ!

というわけで、太田氏の必死の切り込みも、鎧袖一触であった。アララギから「し」の誤りを追放するのが悲願だとあとで私に語ったけれど、それはついに悲願のままに終った。


         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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