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「し」と「る」「たる」(5)
前月は、芭蕉などのいわゆる「し」の乱れについて記したが、古代や中世の古典には、それは殆ど見つからない。
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん
古今集巻一の貫之の歌。「袖ひぢてむすびし水」は、「夏の日に袖を濡らして手にすくった水」という意なのに、私どもは回想と取らずに、今手にすくった水、つまり「むすべる水」の意に取りたくなるのではないだろうか。現代風の「し」の乱れに慣れて、それで古典を解すると誤ることも出て来るだろう。
ことしより春知りそむる桜花ちるといふ事はならはざらなん
これも古今集巻一の貫之の歌。当然ながら「ことしより春知りそめし桜花」などとは言わないのだ。それなら「し」の乱れとも見えるものが全くないかと言うとそうでもない。
だいぶ前に「短歌研究」の「短歌時評」で、この「し」の問題を取り上げた時に私は紹介したのだが、実は古事記の歌謡のなかに一箇所、問題になるところがある。それは下巻の雄略天皇に関る記事で、伊勢の国の三重のうねめが、天皇に酒をついだ盃をささげる時、槻の葉が浮かんでいるので、天皇が怒って斬り殺そうとする。その時うねめが申し上げることがあると言って、
まきむくの日代(ひしろ)の宮は・・・・・
と歌い出して、必死の思いで天皇をほめるその歌謡の言葉に、
ありぎぬの三重の子が、ささがせるみづ玉うきに、浮きし(、、、)脂落ちなづさひ・・・・・
とある「浮きし脂」が、そもそも「し」の用法の乱れの第一号とも見なし得る箇所である。本来ならばここは「浮ける脂」というべきところなのに原文は、はっきりと「宇岐志阿夫良」とある(これは落葉を脂にたとえている)。解釈上のことはもう控えることにしたいが、「浮きし脂」の「し」を強意の助詞にしようとする考え方もあるようだが、それは無理だろう。
万葉集巻七(一二五九)にも問題の歌がある。
佐伯山卯の花持ちし愛(かな)しきが手をし取りてば花は散るとも
第二句原文は「千花以之」。「愛しき」は、「かわいい娘」の意である。「卯の花持ちし愛しきが」は、現在の「し」の乱れに慣れている人には殆ど違和感もないだろうが、やはり「持ちし」はおかしいのである。「卯の花を持っていた」などと回想的な意味にするのは、この歌の場合どうもそぐわない。そこで岩波古典体系は、原文「以之」の之を、連体格を示す助辞とみて「持てる」と試みに訓んでいる。しかしそれは試みでしかない。ここはとにかく「卯の花持ちし」とするほかはあるまい。すると乱れの第二号となるか。「万葉集私注」では「卯の花持ちし」の訓のまま、「卯の花を持って居る(、、、、、)愛しき少女子の」と訳して、割り切って近代的な「し」の扱いをしている。
(平成2・6〜2・10)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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