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「し」と「る」と「たる」(4)
沙浜にくされし如き水流れ白き鰻の子やや上流に上れるもあり
文明「六月風」
萌えしばかりと見ゆる虎杖の若き葉がかげろふ暑き焼石の中に
同
こういう文明作品の「くされし如き」「萌えしばかり」のような言い方が苦になる人は、もうその歌集は読まないほうがいい。
雨はれし木原の中の沼(ぬ)の水にたまたま見えし紅(くれなゐ)の魚
「寒雲」のこの茂吉の名歌も「雨はれし」「たまたま見えし」を気にしたら味わえない。もうこうなったらこの言語状況を認めるほかはないではないか。前にも言ったが、それがイヤな人は自分では使わなければいいだけだ。次に子規の例をあげよう。
はりあげしうたひの声のもろ声の上野の山にひゞきて聞ゆ
もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし処白玉結ぶ
「はりあげしうたひの声」「とがりし処」としている。しかし子規を含め、明治の人々の作品には、現在の如く「誤用」は、氾濫してなかったと思う。いつか佐佐木信綱の最初の歌集「思草」(明36)を一読したが、この手の「し」は見当らなかった。
今、手もとの子規一派の俳句を集めた「新俳句」(明31)を見ると、「川向ひ蚊帳釣りし家の並びけり」(猿人)、「短夜の枕並べし木賃かな」(愚哉)などの「し」も目につくから、この用法はとにかく確実に滲透しているのである。
さかのぼって江戸末期の橘曙覧には、この「し」が見られる。
たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出でありく時
「能くかけし時」とか「うち晴れし春秋の日に」などとはばからず言うこの歌人は、すこぶる現在の我々に近い。「かけし」などと可能動詞も使うところなど、ちょんまげを結った人とも思えない。この歌人には「老いし妻」という言葉遣いもある。その歌の質は決して高くないが、庶民的で親しまれる。
さて、この「し」は、実は蕪村や一茶にもあるが、それは略して芭蕉の用例を次にあげよう。案外芭蕉にも見つかるのだ。
刈りかけし田づらの鶴や里の秋
蜻蛉(とんぼう)やとりつきかねし草の上
衰へや歯に食ひあてし海苔の砂
無精さやかき起こされし春の雨
草の戸や日暮れてくれし菊の酒
初午に狐の剃りし頭かな
風色やしどろに植ゑし庭の萩
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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