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思ほへば
昭和五十八年の四月よりこの「歌言葉雑記」を掲載させていただいている。このまま行けば今年の終りの頃には百回に達する。よくそんなに書く材料があると言われるが、小さいことならばまだ書くことはある。その小さいことだが、第六回に「思ほえば」と題して一文を草した。今回はそれのむし返しである。
父の死に会へざりしことを思ほへば静かに澄みて安らぎに似る
吉野秀雄ここに眠ると思ほへば愛しみてそのみ墓を洗ふ
前の歌は「短歌現代」平成元年十二月号の馬場あき子氏の作品に見えるもの。後の歌は「層」五十号発表の松原信孝氏の作品中のもので、どちらも「思ほへば」を使っている。この「思ほへば」は短歌雑誌には時々見つかる詞句で、この明日香でも拾えるはずであるが、今は間に合わない。
さてこの「思ほへば」は「思へば」と殆ど同じ意味に用いていると言ってよいだろう。「思へば」では字数が不足するので延ばして「思ほへば」としているように見える。しかしこの「思ほへば」という言い方が成立するならば、「思ほふ」という言葉がもともとなければならない。しかるにそういう言葉は本来存在しない。はっきり言えば「思ほへば」は誤解のもとに発生した用語である。それは「思へば」と「思ほえば」のコンタミネーションから生じた奇妙な用語であるとも言えるだろう。
「思ほえば」については前にも書いたが「思ほゆ」(思われるの意で思ハユが思ホユと転じた。ユは自発の助動詞であり偲ハユ、泣カユなどとも使われるが、要するに見ユ、聞コユのユと同様のものと見てよい。)の未然形の「思ほえ」に「ば」がついたので、万葉集、坂上郎女の、
今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ
の如くに「思われるならば」という仮定の意味でなければならない。それなのに大正時代のアララギで、
目をあけてしののめごろと思ほえばのびのびと足をのばすなりけり
という茂吉「赤光」の歌の如く「思へば」のような意味で「思ほえば」を用いたのは、誤解に基づくのである。しかしこの言い方は、明治時代から見えるもので赤彦の「おもほえば君が如くに何ものか静かなるべき」という新体詩の例、また「おもほえば」からの錯覚による「思ほへば」の例として土井晩翠の「天地有情」の「きがき涙もおもほへば今に無量の味はあり」などの例を前に紹介しておいた。(長塚節には「思ほひて」の例があることも記した。これなどは漠然と「思ほふ」という言い方があるかの如く感じているのだ。)
要するに「思ほへば」は無理な言葉である。これに市民権を与えるのは古典に対する冒涜であるとさえ私には思われる。
(平成3・2)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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