短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「短歌ほろべ」

 短歌ほろべ」という題にしたが、そういう問題を論じようとするのではない。次の茂吉の一首の言葉を抜き取っただけである。

短歌ほろべ短歌ほろべといふ声す明治末期のごとくひびきて

 『白き山』の昭和二十二年の作品で、その時代を反映させているが、ここでは「短歌ほろべ」の「ほろべ」という動詞だけを問題にしたい。実は右の一首が、かつてアララギの『斉藤茂吉短歌合評』で取り上げられた時、合評者の誰もが「ほろべ」という動詞の活用形に注意しなかった。それだけ何の違和感もなくなじんだ言い方になっているとも言えるが、そこが私にはいささか不満だったので、今この場で言及したいのである。

 言うまでもなく「ほろぶ」は、本来上二段の動詞で「び・び・ぶ・ぶる・ぶれ・びよ」と活用する。古典の用例は、わざわざ挙げるまでもない。だから「ほろぶ」の命令形は「ほろびよ」でなければならない。「滅びよと駆り立つるものあるときは妖婆のひきし車にも乗る」(中城ふみ子『乳房喪失』)というように。「短歌ほろべ」の「ほろべ」は、「ほろぶ」を「ば・び・ぶ・ぶ・べ・べ」という四段活用にする時の命令形を使った形である。

 ところで現代の国語辞典は、広辞苑をはじめとして殆どが、「ほろぶ」上二段の後身の口語「ほろびる」を、自動詞上一段として挙げる一方、その隣に「ほろぶ」を自動詞五段としても認めて掲げている。たしかに私どもは,例えば「国がほろびる時」と言ったり、また「国がほろぶとき」といったりする。「国がほろびて」と言い、また「ほろんで」とも言って揺れた言い方をする。「ほろんで」は「学んで」「遊んで」と同様に、もともと五段(文語の四段)活用でなければ起こらない撥音便の現象である。この五段の未然形は、普通使われないが、戦前の横光利一の小説「旅愁」には「世の中滅ばうとどうしようと」という言い方が出ている由だ。(宮地幸一『近代動詞の諸相』)それは特殊な例であろう。口頭語で「ほろびない」とは言っても、「ほろばない」とは言わないし、聞いたこともない。しかし上一段と五段と、それぞれ交錯しつつ用いられても、伝統を受ける上一段のほうが優勢であり、それが規範的であるのは勿論である。

 さて初めに引いた茂吉の「短歌ほろべ」は、口語の揺れを受けて「ほろべ」としたのでそれは無論それでいいが、合評する時に正当的な「ほろびよ」でなかった点にちょっと注意してほしかったのであった。なお茂吉は「敵(あた)のもの滅(ほろ)べ滅(ほろ)べと天路(あめぢ)よりいのちもろとも炎(ほのほ)となりぬ」(全集「短歌拾遺」)というのもある。しかしほかの「ほろぶ」の使用は、みな規範的な活用に従っている。

またひとつ国ほろべりと報ずるもわれらありがたしただに眠れる               前川佐美雄

 『大和』の一首。「ほろべり」は、完了の助動詞「り」を使っているので、当然「ほろべ」は、四段活用である。(作った本人は、そういうことは意識しなかったかも知れない)「り」は、「せり」などのサ変以外は,四段の動詞につくのが本則だ。

 『現代俳句用語表現辞典』(三谷明・富士見書房)を見ると、ほろびる[滅びる・亡びる] [上一段](文語、ほろぶ[上二段]) だめになる、おとろへる。と説明があって引用した句のなかに、

初蛙曇を深く滅ぶ田に        篠田悌二郎
鰯雲しづかにほろぶ刻の影      石原 矢束

というのもあるが、この「滅ぶ田に」「ほろぶ刻の」は、どちらも上二段(ならば「滅ぶる田に」という形になるべきだ。)でなく四段の動詞のようになっている。これも口語の揺れを反映させたと言っていい。

 このように動詞の活用が、口語では揺れているものは、案外多い。似た例として「ほころびる」「ほころぶ」もその一つだ。そのほか「たりる」と「たる」、「みちる」と「みつ」、「ふるえる」と「ふるう」、「しみる」と「しむ」、「まかす」と「まかせる」など挙げることができる。

 それが作家のうえにも混乱を起す場合は少なくないが、今回は「ほろぶ」の例だけを取り上げてみた。

 少し余白があるので記す。この連載の文章の「『思ほへば』など」のところで所感を述べたが、牧水の『黒松』にも次のような例があった。

おもほえへば父も鮎をばよく釣りきわれも釣りにきその下(しも)つ瀬に           若山 牧水

 私の『歌言葉雑記』には、馬場あき子氏の用例なども紹介したが、これはやはり問題であろう。「仮の世となほ思ほへる辛夷咲く」(小阪順子)という句も、『現代俳句古語逆引き辞典』で発見した。「思ほへる」などというのも、本来存在しないムリな言葉である。


         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



バックナンバー