短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「死ねば野分」

死ねば野分生きてゐしかば争へり

 加藤楸邨の戦後間もなくの句で、句集『野哭』にあると言う。どうも俳句や俳人の事には詳しくないが、この句をどこかで覚えてその迫力に心打たれて来た。しかし「死ねば野分」の「死ねば」に、いくらか拘るところもあった。そして或る時『能村登四郎 俳句の楽しみ』という本をのぞくと、右の楸邨の句の上五が「死なば」となっているではないか。それでは「死なば」を誤って「死ねば」として暗記したのかと思ったが、ついでに能村氏の「俳句実作入門」を開いてみると、同じ句が今度は「死ねば」として引用されている。そして田川飛旅子『加藤楸邨』その他を見てもこの句は「死ねば野分」が、どうも正しいのである。しかし語法的には「死なば」という方が、仮定の表現であるから正当であるとは言えよう。だが「死なば」では、何かひびきが弱くなる。「死ねば」と口語的な口吻を生かすほうが、この句にふさわしいと言えそうである。なおついでに言えば「生きてゐしかば」と「争へり」では、テンスが合わないが、その程度のことは短歌も俳句も普通のことで問題にする必要もないであろう。

 ここで思いだされるのは、土屋文明の次の一首である。

にんじんは明日蒔(あすま)けばよし帰らむよ東一華(あづまいちげ)の花も閉ざしぬ
               歌集「山下水』所収。

 「にんじんは明日蒔かばよし」と言ってもいいが、ここはあえて「蒔けば」と口語調にしたのであろう。その形が効果的でしたしみが持てると言えようか。しかし、動詞の未然形を使う仮定の形と、已然形を使う確定の形との間は、非常に微妙である。文語の「死ねば」「蒔けば」は、本来は確定条件を表す言い方なのに、口語では仮定条件を表すことになり、まぎらわしくもなる。

此のあした雲を抱(いだ)ける青谷(あおたに)や行かば一日(ひとひ)の息(いこ)ひあるべし

 文明の『自流泉』の一首であるが、こういうスタイルの歌では「行けば」でなく「行かば」と正確に仮定形で言うほうがいいことは、言うまでもあるまい。

生きて在ればいかに老ゆらむ絣着て写真に残る母は若かり                  立川多喜子

 これは、この一月のアララギの東京歌会に提出された作品。初句はやはり明瞭に「生きて在らば」と仮定形にすべきである。

屍(かばね)には美酒を注げとペルシャの詩われには氷河の水あればよし           雁部 貞夫

 今年のアララギ二月号掲載。本人は「水あればよし」のどちらにするか迷ったと言うが、現実に氷河を見ている感慨でもあるので、ここはやはり「水あればよし」とするのが適切であった。

 しかし先にも述べたように、この問題はどうも微妙で、漢詩の訓読などは、本来の日本語の語法を無視するところがある。

 早い話が、盛唐の詩人、王維の有名な「元二の安西に使ひするを送る」という七言絶句の後半の、

君に勧(すす)む更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人無からん

と訓読される「陽関を出づれば」は、考えて見ればまだ陽関を出ていないのに「出づれば」とはこれいかに、である。「陽関を出でなば」とでも訓ずるほうが、語法にはかなう。それで大学受験用の漢文や漢詩の解説書をちょっと手に取ってみると、それに触れてないものもあるが、陽関を出たら故人がないのは自明だから「出づれば」と已然形にして読んでもいいのだと解説している書物もあり、また「陽関を出でなば」と語法に即した読み方を示しているものもあった。それにしてもこの詩の結句の原文は、「西出陽関無故人」であり「無故人」を訓読では「故人無からん」と読むのである。彼我の言語の根本的な相違を今更ながらまざまざと知る思いがする。そして「西のかた陽関を出づれば」式の読み方が、一面には日本語の文法を乱して来たという部分もあることは否定はできないであろう。

 最後に茂吉の二首を挙げたい。

ここに啼く鳥かぞふれば幾(いく)つ居(ゐ)む山の中こそあはれなりけれ          『たかはら』
うつつなる身としいへども夜(よる)いねば年老いゆきてかかる夢(ゆめ)見つ        『石泉』

 上の第一首の「鳥かぞふれば幾つ居む」は、解しかねる言い方である。「鳥かぞへなば」と仮定形で言わなければ「幾つ居む」と照応しないのではあるまいか。第二首は「夜いねば」がへんだ。「夜いぬれば」とでもしないと「かかる夢見つ」とひびきあうことはできない。已然形で言うべきなのである。ごく初期は別として、茂吉は語法を気にする人であったのに、ここはいささか乱れが出てしまったものか。意識的にやったものでは、勿論あるまい。(文明の「一夜寝(ひとよい)ねば彼(かれ)其の世界に帰るらむ山の若葉に父にしたがふ」(『自流泉』)の初句は、正確な言い方である。)


         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



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