朝の三日月
今回は、少し方向を変えて言葉の末に関わらぬ問題を取り上げてみたい。最近目についた三日月の歌を次に記す。
三日月も星も冴えゐる明け方の畑のかなたに空はひろがる アララギ三月号 小林志津江
旅立ちの朝見あぐれば東に三日の月が煌きてをり
読売歌壇三月十八日 山崎マツ子
明け方から朝にかけての細い月を右の作者は「三日月」と言っているのである。それを選者もあやしまない。
念のために「三日月」を辞書で引いてみると、岩波古語辞典には「月の始めから数えて三日目の月。宵のうちに西に没する。」とあって正確な説明である。広辞苑は「陰暦で月の第三夜過ぎ頃に出る月。細く眉の形をしている。」と記して微妙に違うところがある。万葉集巻六に坂上郎女と家持の三日月の歌が並んでいるが、題詞を含めて表記は、三日月の他に初月、若月とあり、それもミカヅキと読むにせよ、必ずしも「三日目の月」ときびしく限定したものではないことは、その文字使いからも想像される。要するに細い月で宵のうちに西に没するのが三日月なのである。先に挙げた二首は、明け方と朝の月だから当然、三日月ではあり得ない。
ところが、小学館の日本国語大辞典には、
陰暦で毎月の第三日の夜に出る月。その月になって三日めごろに出る細い月。また広く一般的に陰暦の月末と月初め頃に出る細い月。
とあり、三省堂版の新明解国語辞典にも「陰暦でその月の三日前後の夜に出る弓形の細い月」としたのはいいが、「広義では月の終りの場合の細い月もさす。」と加える始末だ。それでは先の二首が、東の空に出た明け方、朝の月を三日月と言うのも差支えないことになる。つまり晦日(みそか)に近く月齢で言えば二十七日頃の月をも三日月と称してもいいことになってしまう。それは三日月のように見えても、三日月とは向きが反対で、平仮名の「し」のような形になる。
「女郎の誠と卵の四角あれば晦日に月も出る」と言うが、夜明けの東の空には本当は三日月も出ないのである。「欠け欠けて月もなくなる夜寒かな」という蕪村の句があるが、そのなくなる少し前の月は、三日月ではあり得ない。「三日月の丸くなるまで南部領」は、南部領が広大で隅まで歩くのに日数がかかることを意味する。三日月はやはり丸くなる前の月である。
夜の更けにするどく細き三日月の西空に傾き動くことなし アララギ三月号 大津 松子
この三日月は、午後八時すぎにはおおむね沈むから、右の「夜の更け」は、いささか誇張した表現か。そう言えば次の宮柊二作、
先生はいかがにかまさむこの夜更けて赤き新月は桐の葉を照らす 『群鶏』
の「新月」も、三日目前後の月をさすと思うが、「この夜更けて」は、厳密に考えなくてもいいのかも知れない。白秋の『雲母集』には、「深夜抄」と題するなかに三日月の歌があったと記憶する。
春の夜のオリオンは位置を移しゐて四日の月は西にかくれぬ アララギ六月号
午前一時過ぎて傾く十日の月ソロの林の中を照らしぬ
同
私の見た歌稿より引いたが、作者名の記入を忘れた。これは、ほぼ正確に月齢を捉えていると言えよう。何も科学的に厳密に正確に表現しなければいけないと言うのではない。しかし勝手に無自覚に天地の運行を変えてしまうのもよくはないだろう。
巣立ちすと椋鳥騒ぐなぎの梢(うれ)に晴れたる朝の八日月あり 得能 賀衛
アララギの昭和五十一年頃の作品。八日月が朝あるはずはない。深夜に沈んでしまう。作者に確かめたら、やはり二十三日頃の月のことであった。
と、書いても、私も天文に詳しいわけではなく以前「ほそきほそき下弦の月」などとやって失敗した。上弦、下弦というのもまちがえるのをよく見かける。上弦は、七日頃の半月で日没時に南の空にあり、真夜中に沈む。下弦は、満月を過ぎたあとの半月で二十二日頃に当る。これは大体真夜中に出て次の昼前後に沈むようである。一茶の「のどかさや浅間の煙昼の月」は、下弦前後の月であろう。いつか歌稿で「上弦の細き月すむ夜明けなり」という句を見つけてびっくりした。夜明けに上弦の月が出るわけはない。「暮れなづむ西空高く上弦の細き月見ゆ門とざすとき」も見つけて書いておいた歌だが、「上弦の細き月」は、やはり工合悪い。上弦は半月なのだから。
もっともある天文の解説書に、文学上では新月から満月に至る間を上弦と言うことがあると説いていた。それでは満月以後なくなるまでの月も下弦と言い得るか。すると右の「上弦の細き月」も私の犯した「ほそきほそき下弦の月」も許せるということになるか。私は否定したい。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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