短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「春なれや」

 或る人が、歌稿の末に、次の二首を記して質問をして来た。

天伝ふ光は既に春なれや装ひかはる風の街ゆく
ひそやかに生きし母なれめぐりくる忌の日は常につつじ華やぐ

 この二首を、その人は住む市の歌会に提出したところ、指導者から「春なれや」は「春なりや」に、「母なれ」は「母なり」に訂正されたので、その是非を問うというのである。

春なれや名もなき山の朝霞

 芭蕉の句である。伊勢から奈良へ向う時のものと言う。下五は「薄霞」ともあり、そのほうが芭蕉の定案らしいが「朝霞」のほうを取る。「春なれや」は、「もう春なのか」というほどの意味で、「春なりや」というほうが語法には適うが、芭蕉は、

津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり

という有名な西行の一首(新古今集第六・冬)を念頭に置いて詠じたに違いない。「夢なれや」は「夢だったのか」という意である。「夢なれや」と言って「夢なりや」としないのは、次のような古い万葉集の言い方が暗々裡に働きかけたからであろう。

うちそを麻続(をみ)の王(おほきみ)海人(あま)なれや伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(を)す <結句ママ>   時の人 (二三)
いにしへの人に我あれやさざなみの古き都を見れば悲しき  高市古人(三二)

「なれや」「あれや」は、いずれも助動詞や動詞の已然形に疑問の助詞の「や」がついて、「海人(あま)だろうか、海人でもないのに」「昔の人なのか、自分はそうではないのに」と反語風の意味合いをこめている。しかしこういう表現がいつでも反語的になるとは限らず、万葉集でも、

ももしきの大宮人はいとまあれや梅を挿頭(かざ)してここに集(つど)へる   作者不明(一八八三)

の「いとまあれや」は、反語的に大宮人を皮肉っているかの如くにも見えるが、そうではなく、「暇があるのか」とむしろ大宮人を讃美しているように見える。この「いとまあれや」は、西行の「夢なれや」にも近く、芭蕉の「春なれや」にも遠くつながる。とにかく万葉の「なれや」「あれや」の形式が、後世に影響を与えているのである。

 だから初めに引いた「天伝ふ光は既に春なれや」と詠んだ作者も、そういう表現の伝統のもとに「春なれや」とやったのに、指導者は何者か知らないが、さかしらに「春なりや」と添削したのは全くの誤りとは言わないまでも、芭蕉の一句も知らない人で、指導者としては教養不足ということになるのではないか。もう一首「ひそやかに生きし母なれ」の已然形を「母なり」と終止形にした点であるが、これは「母なり」という普通の表現のほうが穏当かと私も思うが、近代短歌にはこの「母なれ」式の、上に「こそ」がなくても已然形に結ぶ言い方もさほど珍しくなくなった。

はつはつに触れし子ゆゑにわが心今は斑(はだ)らに嘆きたるなれ    茂吉『赤光』
十方に真(まつ)ぴるまなれ七面の鳥はじけむばかり膨(ふく)れけるかも   同
この夜は鳥獣魚介(てうじうぎよかい)もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも   『あらたま』

 思いつくままに茂吉の「なれ」の用例を挙げてみた。ついでに「なれ」でない、ほかの用言等の用例を記する。中村憲吉の歌集より。

新芽(にひめ)立つ谷間あさけれ大仏にゆふさりきたる眉間のひかり   『林泉集』
潮騒のゆふ香(か)はぬるく身をそそれ恋ひじとすれどなぎさ潮さゐ   同
あかね刺す真昼明けれ大がらす眼(ま)ぢかく下りて啼かざりにけり   同
東雲(しののめ)はすでにうごけれ下駄にふむ庭の堅雪(かたゆき)へ赤くにほひて   『しがらみ』
日ねもすを裏の座敷に冬日させ感冒(かぜ)にこもりて我が眠くなる   同

 憲吉作品からこういう例を拾ったらきりがない。これはまた特別な語感の持主であった。「あさけれ」「明けれ」等の形容詞はまだいいとして「うごけれ」「身をそそれ」「冬日させ」とは、妙な用法である。要するに上に「こそ」などなくとも動詞の已然形で言い放って詠嘆を強く出そうとする魂胆である。憲吉の晩年の、

雨あとはあさより日照れ川かみの山かひの霧ながれ出づれど   『軽雷集以後』

の「日照れ」も同一技法だ。これは古典の享受のしかたに少々ゆがみがあると評してもしかたないであろう。こういう傾向は、他の歌人よりも憲吉に強く痼疾のように表われているので、ここで一言してみた。それはそれとして前に戻って「ひそやかに生きし母なれ」の「母なれ」は、近代短歌に同様の言い方があるのだから誤りとも言えない。

 しかし、「母なり」のほうが一応素直な表現だとも言えよう。ただ無下に「母なれ」を誤りとして斥けるようなことは、すべきではないと言いたいのだ。

         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



バックナンバー