短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「月西渡る」

 万葉集巻一に、軽皇子(かるのみこ)(後の文武天皇)が安騎(あき)の野に宿った時の柿本人麿が詠じた長歌と短歌(四五〜四九)が載っている。そのなかの

東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

は、特に有名な一首だ。原文は「東野炎立所見而反見為者月西渡」であって、これを玉葉集に「あづま野のけぶりの立てる所見てかへり見すれば月かたぶきぬ」として載せたのは、即ち旧訓を示すものであった。

那須山に煙の立てるところ見て白坂白河ははやく越え来ぬ

という土屋文明の『山谷集』の一首は、その旧訓を巧みに利用した歌である。

 その旧訓を訂正してヒムガシノ、ノニカギロヒノ、タツミエテとしたのは、賀茂真淵の『万葉考』で、これは名訓と言われた。

 さて、昨年の末頃に伊藤博氏の『萬葉集釋注一』が集英社から出版され、現在二冊まで刊行された。三十八年ぶりの個人全注釈ということで、二十世紀万葉学の集大成というのもその通りであろう。ただ戦後半世紀の万葉の学説には私はうといので、その新しい訓などには違和感を覚えることも、なくはない。その一例として右の人麿作品を挙げる。この歌を『釋注』のままに記すと、

東(ひむがし)の 野(の)にはかぎろひ 立(た)つ見えて かへり見(み)すれば 月西渡(つきにしわた)る

としている。第二句「野にはかぎろひ」と訓ずる理由は、

動詞「見ゆ」が他動詞に接する時には、古代ではかならず終止形を承ける。よって上の「立つ」は終止形と見なければならないが、その終止形は格助詞の「の」や「が」を承けることがない(佐伯梅友『万葉語研究』)。この点に留意しての真鍋次郎「四八番歌私按」(万葉第五十八号)の改訓による。

と説明する。また結句の「月西渡る」については、

この句、旧訓ツキカタブキヌで、今や通訓となっている。しかし、上の「東の野にはかぎろひ立つ」に対しては、原文「月西渡」の文字にそのまま則してツキニシワタル(『代匠記』精一案・『私注』一案)と訓ずる方が適切であろう。

として漢詩文に「西流・西傾・西帰」等の例が多いことを注意した説も紹介している。

 以上この人麿の作歌に、新しい視点を加えて新訓を採用しているのである。

 「東の野にかぎろひの立つ見えて」と訓むと「見えて」の上の「立つ」は終止形でありそれは「の」を承けないのが古代語の法則だというのだが、それは絶対的な鉄則なのだろうか。そうすると、後世の例だが、「箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」(実朝)の「波の寄る見ゆ」という言い方も、古代にはあり得ないことになる。もともとこの歌は、

ヒムガシノ、ノニカギロヒノ、タツミエテ

と訓んでもこの上句に句割れが二つあるような感じで、言葉の運びが完全だとは言えまい。それなのにヒムガシノ、ノニハカギロヒ、タツミエテでは、第二句の調子が全く停滞してしまう。ノニハのニハがよくないしカギロヒからタツミエテに続く呼吸も不自然だ。(このカギロヒは、動詞ではなく、名詞で「あけぼのの陽光」とされる。)

 さらに下句が、カヘリミスレバ、ツキニシワタルでは全く調子をなさないのではないか。ツキ、ニシ、ワタル ─ こんな音感の悪い小刻みな調子を人麿が採用しただろうか。「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて」の多少のギクシャクも下句で「かへり見すれば月かたぶきぬ」と線太く一気に詠み流すことによって逆に生かされているとも言えるのだ。

 今、こんなことが問題になるのは、原文が「東野炎立所見而反見為者月西渡」という、いわゆる略体歌になっていて助詞の表記を極端に省いているからである。この用字が人麿の原作のままに伝わったとすると、後世に到って「月西渡」を文字通りツキ、ニシ、ワタルと読む人が出て来はしないかと、人麿大人は危惧の念を抱くことはなかったものか。

 甚だ主観的ではあるが、「野にはかぎろひ」「月西渡る」では人麿調を成さないと私は考えるので一筆した。

 付記。茂吉の『寒雲』の次の一首は、右の人麿歌の影響を受けている。

ひむがしの野をわれ行けばさみだれの雲こごりにし中に日は落つ

 人麿作に比べて、上句はすっきりとしているが、下句の「雲こごりにし中に」のあたりは声調上の難があり、そのスケールにおいて結局は人麿作には及ばないということになろうか。

         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



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