再言・三十路など、顕つ
この夏、或る短歌大会の応募作品の選者になって読んだ多数の作品のなかから、以下何首か並べてみる。作者名は不明である。
海軍葬喪服の母の胎内にありしとふ我の五十路を越ゆる
満開の梅の便りに七十路を過ぎてなほ恋ふ故郷の庭
この「五十路」「七十路」は、「五十」「七十」の意味に使っていると思われる。
職蘭に無職と記して寂しかり職なし生きる八十路のわれは
八十路なる夫がトマトの棚成さむ杭しかと打つ額に汗して
この「八十路」は、「ちょうど八十」とも「八十代」とも取れよう。
六十路坂登り極めてやっと知る何にもまして大事なあなた
八十路行く母のうなじのくぼみたる来る日思ひてまなことづわれ
「六十路坂登り極めて」は、「六十の坂道を登って七十になろうとして」の意か。「八十路行く」は、「八十代を生きる」の意であることは明らかである。以上の応募作品は、作者の年齢を暗示して「五十路」以上の使用が目立った。
このことは前にも論じたのだが、二十(はたち)というからには、三十(みそぢ)、四十(よそぢ)以下の{ぢ」も数詞に添える接尾語で、年齢を言う際は、三十歳、四十歳という意味であった。いつ頃から「三十路」などというような表記をするようになったものか。
うす青き夏の木の実(こ)(ママ)を噛むごとくとしの三十路(みそぢ)に入るがうれしき 牧水『死か芸術か』
これは「三十代の入口」という意識もあるかも知れないが、「三十歳」の意に取っていいであろう。しかし「三十路」という表記が普及すると「「三十歳」よりは「三十代」の意味に移りがちになる。
われすでに四十路(よそぢ)を過ぎて思ふことやうやく寂し春は来れども
何ごとも忘れはてむとあはれなる四十路男(よそぢをとこ)はまたも旅ゆく
戦前の『短歌文学全集、吉井勇篇』(第一書房)のなかから引く。前のは昭和四年、後のは昭和五年作と作者が自注する。年譜によると昭和五年は数えの四十五歳である。即ち「四十路」を両方の意味に使っているのだ。
その両義性は、先に挙げた応募作品にも出ているが、次第に「三十路」は「三十代」、「八十路」は「八十代」に傾きかけているように見える。
日本語の曖昧さは、もううんざりするほどで、例えば「信濃路」は、「信濃へ向う路」が本義であるが、それが「信濃の中の路」そして信濃そのものを意味するようにもなる。こういう例を挙げたらきりがないだろう。
「三十路」から「八十路」などの「路」をつけた表記と拡大した意味とを私はこれまで非難して来たのだが、もう止めようと思う。これだけ一般に広まってしまったのでは、もうどうしようもないではないか。
なお応募作品から引く。
血書にて特攻願ひし日の顕ちてビールも苦き旧盆の昼
俘虜たりし父の柩出づシベリアの原野顕つまでけふの地吹雪
春雪の白きほむらと乱れ降る北満に果てし君顕たしめて
碧海に蒼氓の民顕たしめてブラジル丸は鳥羽に静けし
「顕つ」という表記を使ったものは、まだあるが、このくらいにする。この表記は、かつて私が考証したように、釈迢空が大正七年のアララギに「髣髴顕(けしきた)つ」という初句を持つ歌を発表し、以後終生「顕つ」を愛用したので広まった。土屋文明が、或る時「どこのバカが『顕つ』などという文字を使うようになったのか」と言ったことがある。迢空だと知れば、そんな言い方はする人ではなかった。
冬ごもりひと日のすゑはおもほえて金色堂の影も顕つがに 白秋『牡丹の木』
一羽ゆく鷺を思へば蓑毛顕(た)ちうしろなびけり雪もよひ空 同
青々と晴れとほりたる中空(なかぞら)に夕かげり顕つときは寂しも 佐太郎 『群丘』
現代歌人の用例は、もう省略しよう。この「顕つ」は歌人の恣意的な文字遣いとして、私も今まで批判してきたのだが、こう広まっては手がつけられない。もうあっさり認める方がいい。いやなら自分が使わなければいいのである。しかし例えば蕪村の「散りて後面影に立つ牡丹かな」の句を「面影に顕つ」などと書き変えるのは、勿論よくない。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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