短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「野(の)と野(ぬ)」

 短歌雑誌に「野榛(ぬはり)」「ぬはり」と同名のものが二つあり、どちらも菊池知勇創刊とある。その誌名は、勿論、万葉集第一の、

綜麻形(へそかた)の林のさきのさ野榛の衣(きぬ)につくなす目につく我が背

の歌に基づくに違いない。この「さ野榛」(「さ」は接頭語。野のはんの木)を誌名とした理由は、今は問わなくていい。

 さてこの「さ野榛」は、江戸時代でも契沖の代匠記では、サノハリと訓んだが、その後の万葉集略解や古義では、サヌハリと訓じた。右の誌名は、その訓に従っているのである。私どもは、戦前の昭和十年代に万葉集に接して、

たまきはる宇智の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野

という巻一の初めの方に出て来る歌の「大野(おほぬ)」「草深野(くさふかぬ)」から始まってすべて「野」はヌと読まされ、それがいかにも古歌らしいひびきを持つと感じて来た。ところが、今、岩波古語辞典補訂版の「野(ぬ)」を引くと、

江戸時代の国学者が万葉仮名の「努」「怒」などをすべてヌと訓むものと誤認した結果生じた語。

とあり、他の古語辞典や一般の辞書類も近頃はそういう説明になっている。江戸時代の国学者とは賀茂真淵やその一派をさす。要するにノが誤読されてヌとなり、それがまたもとのノに戻って、ノ→ヌ→ノの形になったというのだ。その学説の音韻の研究の経過は、今は触れないでおく。ただ、万葉集代二十の下総の防人作の、

千葉の野(ぬ)の児手柏(このてがしは)のほほまれどあやにかなしみ置きて高来ぬ

の野は原文「奴」であるから、ヌと訓まざるを得ない。だから学者先生は、この場合は東国方言とか母音交代とか言って逃げの手を張ることになる。

 戦後の学界では、ヌ→ノは支配的になった。最近の万葉集注釈書、例えば伊藤博著『萬葉集釋注』では、「野」をかつてはヌと訓んだということわりなどは一言もない。

 戦後の注釈書で頑強にヌを通したのは、土屋文明の『萬葉集私注』である。右の防人の「千葉の野(ぬ)」の如き、多少の例外と見るべき例が集中にあるのを楯にしてヌを死守したと見える。しかし多分に主観的であり感情的のようにも思われた。柴生田稔著の『万葉の世界』を見ると、この人は学者と歌人の相剋に悩んでいたらしく万葉の歌を引くにもつとめて「野」にルビを振らないように気を配っていたように見える。たまに「上毛野(かみつけぬ)」としたところもあるが。

 「野(ぬ)」の古雅なひびきを最も愛好した歌人は、茂吉ではあるまいか。何しろ言海に「野(ぬ)」を「(ヌル)キノ意、()ノ古言」などとあるのに年少時代から接したためでもあろう。

わがあゆむ木下(こした)(やみ)より見えながらあかるき小野(をぬ)(かぎ)られにたる  『寒雲』

 このほか『寒雲』には「小野(をぬ)」が幾つか見られる。更に、

やまがたの()をしおもほゆ白頭翁(おきなぐさ)並みふふむらむ野(ぬ)をし思ほゆ  『寒雲』

という一首もある。(ついでに言うと、この「野をし思ほゆ」は、語法的には問題がある。「思ほゆ」は、上に「を」を取らない。)しかしヌ→ノが定着し始めた戦後にあっては、

うち日さすところの岡は相模なる小野(をの)のごとくに曼珠見沙華あかし  『つきかげ』

の如くに「小野(をの)」となって、かつての「小野(をぬ)」は使用しなくなった。茂吉という歌人は、学説には割に敏感な人だったと思う。それは「食(を)す」が敬語だという説を気にして戦後には、自己の行為には使わなくなったのと同様である。

 なお文明は『私注』では、ヌを貫いたが自作には「野(ぬ)」の例は一例もないようだ。

 以上ヌ→ノの代表例として「野」について記述したが、そのほか「楽(たぬ)し」とか「凌(しぬ)ぐ」とか「偲ぶ」とか、こういう言葉も、特に明治以後は子規以下の根岸派の歌人に多く使用された。

 これからも皆、辞書には誤読によって生じた語と書かれる。子規の、

われひとり見てもたぬしき都べの桜の花を親と二人見つ 

などの「たぬしき」は、万葉語のつもりで使用したのだろうが、はっきり言えばやはり後世の、でっち上げの用語であった。

 この類の言葉は、今は全く使用が絶えたかというと、そうでもない。

内孫と外孫と揃ひ楽しみて遊びて居るを見るはたぬしも
           米沢公義 「アララギ」平8.4

の如く、案外片隅に残存しているのである。

 付記。「野(ぬ)」の例で書き忘れたが、江戸時代の良寛は、加藤千蔭の『万葉集略解』を読んだ人であるから、ヌの洗礼を受けている。その歌集には「秋の野(の)」のほかに「秋の野(ぬ)」もあり、「野山(ぬやま)」の例もいくつか見える。

         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



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