「ともに死なめ」ほか
かなしもよともに死なめと言ひてよる妹にかそかに白粉にほふ 松倉 米吉
或る人からこの歌の「死なめ」という言い方について質問して来た。私は「ともに死なむ」でもいいのだが「死なめ」と言ったのは詠歎を強くするためだろうと返事をした。松倉米吉は、古泉千樫の門でこの歌も千樫の添削が加えられているはずだ。その千樫に、
皐月空(さつきぞら)あかるき国にありかねて吾(あれ)はも去(い)なめ君のかなしも 『川のほとり』
という初期作品がある。「吾はも去なむ」では平叙的になってしまう。「む」の已然形の「め」を使って「去なめ」とすると俄然艶が出て来る。それは千樫の師の左千夫の、
うつそみにつまと云はなく心ぬちに相恋ふらくは神も許さめ
の「神も許さめ」にも言うことができよう。こういう用法は、近代になってからのものであろう。万葉の「吾こそは告(の)らめ」「吾こそまさめみ思ひよりは」「誰(た)が恋ならめ吾(あ)は恋ひ思ふを」などは、それぞれ上の「こそ」や「誰が」と呼応しての「め」であるが、近代以後は呼応しなくても「む」の已然形「め」を使って強めるのだ。それは「今は斑(はだ)らに咲きたるなれ」「十方に真(まつ)ぴるまなれ」(茂吉)の如く、突如、已然形を持って来る言い方と軌を一にしているのである。次に白秋の三首を挙げる。
しんしんと寂しき心起りたり山にゆかめとわれ山に来ぬ 『雲母集』
海にゆかばこの寂しさも忘れられむ海にゆかめとうちいでて来ぬ 同
寂しさに堪へてあらめと水かけて紅き生薑(しやうが)の根をそろへけり 『雀の卵』
白秋の「め」の使用例は、まだあるが以上にとどめておく。この「め」のひびきを愛したのであろう。
離婚後の子の周辺の混沌と見えわかぬまま冬深みゆく 田谷 鋭 検査表CA-19-9のチェックより三月(みつき)を過ぎて夏ふかむなり 吉田 漱
今年の「歌壇」五月号及び十一月号に載った作品。「冬深みゆく」「夏ふかむなり」の「ふかむ」はそれぞれ「深まる」と同じ意味で文語は四段活用の自動詞である。この「ふかむ」は、よく問題になり、私も前に書いたこともあるが、自動詞としての用例が古典になかったせいか、以前は辞書に載せず、最近ようやく載せるものも出て来たが、たとえば広辞苑第四版などでは、まだ収録していない。
山々は白くなりつつまなかひに生けるが如く冬ふかみけり 茂吉『小園』
冬ふかむひかりとおもふ道の上に俄にあらき凹凸見えて 柊二『日本挽歌』
今、仮りにこの二首を挙げたが、「ふかむ」は、もう珍しくもない。この十月十六日の読売新聞の時事川柳に「三味の音が消えて谷中に深む秋」という句が出ていた。何でもない語である。辞書が取り上げなくても困るわけではないが、こんな平凡な動詞を収めないのは恰好が悪いことになりはしないか。
『疑問仮名遣』という本がある。多くの人は、この本の存在も知らない。(稀に古書展等で見かけるが、高価である。)今、広辞苑の説明を引くと、
語学書。二冊。文部省国語調査委員会編。前編は一九一二年(大正一)、後編は一五年刊。古書に明証を求め難い二八九語の仮名遣を五十音順にあげ、古来の学説と実例によって正しい歴史的仮名遣を研究した書。
とある。要するに三百に近い日本語の仮名遣を検討した書物で、イハケナシ・イワケナシ、ウズクマル・ウヅクマルなど、いちいち学説をあげてその是非を論じている。現在においても実は決定し難い仮名もあるが、殆どは一応落ちついて現行の辞書類には、正しい歴史的仮名遣として示されているわけだ。その歴史的仮名遣は、一つの文化遺産でもあると思う。今ここで事新しく論じようとするわけではないが、歌人は、特に歴史的仮名遣を立て前とする人は、その仮名遣の歴史そのものも考慮していいのである。
それはそれとして、旧仮名信奉者の歌集でも誤を全く見つけられないというものは少ないのではないか。早い話が、この「歌壇」発表の作品にも月々多少は発見される。誤植もあり得るが、多くは歌稿がそのまま尊重されて印刷されるものと解する。次にその仮名遣のみ抜き出して記す。上が誤。
散りばふ (四月、一五四頁) 散りぼふ
理(ことはり) (五月、一八頁) 理(ことわり)
魚族(うろくず) (十一月、一六頁) 魚族(うろくづ)
水沫(みなは) (同) 水沫(みなわ)
一条(すじ) (十一月、一一六頁) 一条(すぢ)
もうあとがなくなった。残念ながら大家の作品にも見られる。ルビに多いのはそこで気を許すためか。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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