短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 口語と文語をめぐつて

自転車をおりることなく投函し梅の花さく道より帰る

吉野昌夫氏の歌集『これがわが』の一首である。この歌集は、口語を巧みに生かした表現が多く目につくが、今は右の歌の「おりる」(降りる・下りる)を取り上げてみたい。この動詞は、言うまでもなく口語では上一段活用。文語は上二段活用で語尾「り・り・る・るる・るれ・りよ」と活用するはずである。しかし「おる」「おるる」「おるれ」という終止、連体、己然の形が実際使用されるものであろうか。古典の散文にはあるかも知れないが、まず和歌などには使われなかったであろう。右の吉野氏の作も「自転車をおるることなく」などと文語としての筋を通すと、妙な語感を生ずる。ここは、口語の「おりる」でなければ収まらない。

起きるにはまだ早ければ床の中にとどまりて二度なき生をかなしむ

 同じく吉野氏の作。この歌も初句を「起くるには」などとは言えない。「起きるには」という口語が自然である。(文語的に表現するならば「起きむには」とすることもできようが。)

(ゑひ)さめて起きれば夜半(よは)になりゐたりおぼろの月は瀬戸の鳴門に

 これは前川佐美雄作。第二句「起くれば」では、やはり違和感があるので「起きれば」という口語にしたのであろう。

 現代短歌は、口語が次第に勢力を伸ばしつつあるが、動詞のなかにはもともと文語を使うとひびきが固く語感が悪くなるものがある。以下、選歌などの過程で気づいた例を少々挙げてみよう。必要な部分だけ切り取ってその連体形を示すことにする。括弧のなかが文語である。

○吹き抜ける風(吹き抜くる)
○瓶に漬ける実(清くる)
○生き伸びる命(伸ぶる)
○照りつける光(照りつくる)
○こげる匂ひ (こぐる)
○はねる音する(はぬる)
○言ひかねる (かぬる)

 こういう動詞の文語の言い方に違和感を感ずるのだが、これは個人差もあろうが、私が見た範囲では、やはり使用されるのは、殆ど口語のほうである。おおむね、文語が上二段か下二段の動詞で、口語は、それぞれ一段活用になる。「吹き抜ける」の文語「吹き抜く」はいいとして、「吹き抜くる」「吹き抜くれば」という連体、己然形ともなれば、もういただけない。これは作歌する者に共通する感覚であろうと思う。しかし最初に挙げた「おりる」を「おるる」とするのには抵抗を感じても「流るる」とか「こぼるる」という動詞の連体形には、少しも違和感がないであろう。やはり語感は慣れに左右されることになる。

 前にも書いたが、現代の日本語のなかで気になる言い方の一つにサ変の動詞の扱いがある。「愛する」が、五段活用になって「愛さない」とか「愛す人」とか言うのも気になるが、「感ずる」が「感じる」となるのも、私は抵抗を感ずる。少なくとも文章語は「感ずる」としたいのだが、金田義彦氏のような学者も「感じる」と書いているから、これはもう一般的で異を立てるわけにもいかないか。

まぶしさも感じる事の無きことを淋しと言ひぬ手術せし君が

 昨年の国民文化祭の選歌用作品集にあった毒歌のなかではやはり「感ずる」を使うほうがいいと思う。

 今、思いついて子規の随筆「病牀六尺」のなかの口語文を調べると、みな「感ずる」と書いている。現代の辞書は「感ずる」「感じる」両方を出しても「感じる」を重く扱うようになっているようだ。「応ずる」「命ずる」「通ずる」「案ずる」の頼も、今では「じる」のほうが優勢で新聞も「応じる」式に大部分はなっている。しかし見出しによく出る「応じず」「通じず」の形は、口語と文語のミックスで見苦しい。

子が行きしウズベキスタンの彼の地には電話も通じず音沙汰もなし 沖村康子

 アララギに掲載された歌だが「通じず」は「通ぜず」としてほしいところだ。 

 よく道路のはたに「駐車を禁ずる」と注意書きを見るが、たしかに「禁じる」ではひびきが弱いのである。「私を信ずる者は死んでも生きる、キリスト」という言葉を掲げる教会もあるが、「私を信じる者」では訴える力が弱いのであろう。 

 たまたま俳句誌の「馬酔木」(平成九年二月号)を手に取ってみて、

降誕歌神を信じし日もありき       水原 春郎

の一句を見つけた。やはり「信ぜし」と言ってもらいたいのだ。「聖戦と信じしいくさ」という表現もどこかで見かけたが、それも「信ぜしいくさ」と言うべきである。

        筆者:宮地伸一 新アララギ編集委員、選者



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