短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「芭蕉の仮名遣など」

 このたび岩波書店から出版された『芭蕉の自筆奥の細道』を手にして興味津々たるものがあった。私は特に表記面を注意したのだが、動詞の終止形を記す場合に、

滝有    野中を行     雨降

の如く「有り」「行く」「降る」の語尾の部分を仮名書きしない書き方がおもしろかった。「わせの香や分入右は有そ海」「蛤のふたみに別行秋ぞ」の句なども、送り仮名をつけずに「分け入る」「別れ行く」と読ませている。しかし「見送る」「泊る」などと現代に変らぬ書き方のところも見られる。

 芭蕉は契沖が「和字正濫鈔」を書き著わす前に没しており、正確な仮名遣からはだいぶ離れているだろうと予想したが、案に相違してそれほど乱れていない。勿論「谷をこえて」と記したすぐあとに「ほのぼの聞へて」と書くヤ行下2段の不統一もあり」「おのこ」「おがむ」等の乱れも目につくが、当時としては咎めだてするほどのことでもない。その書きぶりを眺めると、芭蕉は、できるかぎり仮名遣にも注意したのではなかったかと思う。

 さて、また本誌「歌壇」に登場した歴史的仮名遣派の歌人諸氏の仮名遣を問題にしたいのだ。材料は本年1月号から3月号まで。

○「あはただしく生き継ぐ一日」(1月号28頁)

 「あはただし」という形容詞は「あ()ただし」と書くべきである。アワタダシは、江戸時代初期まではアワタタシであったと言う。それは「泡立たし」で「泡立つ」の形容詞化したもの。煮えたぎる湯の泡立つさまは、いかにもあわただしいではないか。別に、あわてる意味のアワツという動詞もある。辞書には新撰字鏡(平安初期の字書)に「狼狽安和((アワ)(ツ))」とあるのを引く。いずれも「泡」と関係のある言葉で、泡がアワであることを押さえれば「あはただし」などとあわてて書く必要はないのである。そう言えば1月号18頁の「あはてはじめぬ」も、「あわてはじめぬ」と書くべきではないか。

○「おずおずと人生の解釈なさむ力」(2月号94頁)

 「おずおず」が新仮名になってしまった。旧仮名は「おづおづ」。この作者は「ひとまずは」とも記す。「ひとまづは」の誤。

○「かすかに潮の香のきこゑつつ」(2月号101頁)

 この「きこゑ」はヒドイ。あるいは誤植か。キコユは、言うまでもなくヤ行下二段の動詞。キコヱとはならない。動詞の活用の認識がない作者には「きこへ」などと書く人もいる。

○「眼閉じれば」(2月号108頁)
○ 「ほほえむ人には」(同109頁)

 同一の作者。ほかの歌は旧仮名なのに、この二つが調和を破る。「閉ぢれば」「ほほゑむ」と書くべし。

○「()()」(2月号151頁)

 「みず」のルビは「みづ」が正しい。

○「部屋を出づれば」(3月号13頁)

 歌壇賞受賞の作品より。この作者は、全体を新仮名で書いているのにここは旧仮名だと思って見て行くと「思い出づるは」という仮名がまた出て来る。「出づ」だけは「出ず」と区別するために旧仮名を採用する方針か。

○「廂()昏し」(3月号148頁)

 ルビは「()」とするべし

○「ひとりでいるより」(3月号148頁)

 上に「焚きてをり」とあり、不統一。うっかりミスであるかも知れない。

 以上、ざっと見渡して旧仮名の誤と見るべきものを並べ立てた。なかには咎めるには値せぬものもあろうが、とにかく旧仮名派の歌人は、旧仮名を信奉するならば、もう少し仮名遣に神経質になるべきではないか。

 それにしても、以前にも言っただろうが、俳句の表記も同様であるが、新旧の仮名遣がどこでも入り乱れて混乱している。朝日新聞の歌壇は新仮名で統一するが、俳壇は旧仮名。毎週双方が仮名遣では睨み合っている。それは日本の文化の混乱の象徴であると言えなくもない。

 次の世紀に入れば徐々に統一されるだろうか。それとも短歌ある限り、新旧の仮名遣はそれぞれ対立して行くものか。とにかく旧仮名派が、それは芸術派志向の歌人に多いだろうが、幼稚な誤を繰り返すようでは、旧仮名を維持する誇りなどは捨て去るほうがいい。今ここで新旧仮名遣の優劣論には触れないことにするが。

 前月号で、飛行機をただ「機」とする白秋の昭和11年作の例をあげたが、その前の昭和3年の「日本に於ける最初の芸術飛行」と自ら称する「郷土飛行吟」(『夢殿』)のなかに、

風立てて我が()の空を過ぎにけるこのたまゆらよ機は揺れ揺れぬ

などの例もあるので追記する。

 なお茂吉が昭和4年に飛行機に乗った際の「虚空小吟」(『たかはら』)のなかには「機」という略語は見られない。

        筆者:宮地伸一 新アララギ編集委員、選者



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