短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」


○日ぐれの室に英ちやんと向ひ座り居て何でこんなに手がふるふのか  木暮 深

【宮地伸一】もう一首は「一分角の紙で鶴折り見せたのもあなたの注意を引きたいがため」というのであり、はじめから口語短歌などと銘打って詠んだものでなく、アララギの歌風が用語の面でも種々の苦悩と模索とを繰り返しつつ、こういう表現を要求するところまで展開してきたと解すべきであろう。嘗ての子規の自由な口語歌にくらべてどのくらい進歩しているかという疑問もあるが、一般の作者が、こうゆう表現の方向に進む事は、たとえまだ試行錯誤の段階であるにせよ、十分意味のある事だ。そういうわけでこの歌を取りあげた。歌っている内容は、他愛のない事だが。

【小暮政次】口語の事は、もう少し細かく調べなければわからないが、話言葉をそのまま引用した部分は別として、今のところ案外みな類型的なのではなかろうか。たとえば、此の月の此欄にちょっと目を通しても、「良いのかも知れぬ」「ゐたかも知れぬ」「食はす気かも知れぬ」などは口語に移るというより、類型を求めているという様な気がする。又、第四句までは文語で第五句だけが口語のが多い様に思う。(これは叙述を文語、詠嘆を口語でする極めて自然な成り行きかも知れない)ともかく、歌と口語の関係については、もっと考えてみなければならないが、数年、十数年という期間で見透しのつく問題ではなかろうとも思うし、又意外に速くはっきりすることかとも思う。

○がむしやらに働き宵は早く寝るやはり資本主義で良いのかも知れぬ  奈良 幸夫

【宮地伸一】上句と下句のつき過ぎ(・・・・)が難点だと思う。僕は「やはり資本主義で良いのかも知れぬ」はどうも一種の「秀句」意識で作られたような気がしてならない。切実な心底からの感慨じゃない。事実は「資本主義で良いのかも知れぬ」とつゆ思いもしないくせに、歌の上だけではちょっと迷ったふりをするといった所があるのではないか。だから上句は何を持って来てもいいし、又何を持って来てもつき過ぎるのである。もっとも歌評は人にするものではなく己れにするようなものだから、こういわれたからといって作者は怒らぬ方がよい。

【小暮政次】前評に「切実な心底からの感慨じゃない」と言っているが、私もそんな気がする。こういう生ぬるい歌ではいけないと言う人もあるに違いないが、歌はこういうことになり易いものなのである。それにしても、一二三句はどういうものだろうか。「宵は早く寝る」あたりに、作者の気持ちがあるかも知れないが、これでは浅い。

昭和二十七年十一月号

 (漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)



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