袈裟の埃清めはらひて釘にかく暑きひと日を寄付集め来て(八月号)
これは僧侶としての類型歌に堕しているであろう。「清めはらひて」などは言いすぎであろうと思う。
浜の松に僧衣ぬぎかけて安らへば海に映えたるくれなゐ長し(二月号)
「僧衣」という語を第三者が使うならともかく、作者のような人が自ら使うのはどうであろう。(「仏像」という語も然り。)しかしそういう事よりも作者自身がいつも僧侶として己れを律しているような所が目立つのが気になる。この場合何も「僧衣」とことわる必要もないのではあるまいか。この作者の歌のおもしろさは僧としての自覚が表現されるためでもあるが、時にはそういうものを離れた所で歌を作るのも作者にとって意味があるのではないかとも思われる。
昭和三十七年一月号