短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」


搾取者の墓石いまも籬(まがき)して無頼を見するこの逍遥地(林間十月号)      木村 捨録 

 【宮地伸一】高野山における作品である。搾取者とはだれをさすか分からないが、そういうものの墓石に対する感情を、歌にするのも一概に悪いわけではない。
しかし「無頼を見するこの逍遥地」とは何とまた大ざっぱな表現だろう。
「逍遥地」という言葉も、そういう止め方もよくないし、「無頼を見する」も何だか無神経な言い方でなじめない。
そういえば「搾取者の墓石」などと頭から言うところもあまり粗すぎる表現である。次の

「墓群(はかむら)をおおう槇の木白きまで霧したたらす まぼろしのおと」

なども工夫はしているが成功していない。とにかくもう少し細かく言葉に心を使う必要があるのではないか。

 【小暮政次】「無頼を見する」などは言葉の使い方以前の問題であろう。

 【五味保義】こうした程度のものの見方をしていて、「搾取者の」など言っても間に合わぬ。

昭和三十七年十二月号



吉田正俊の歌             宮地伸一  

みにくき心を今日も見たりしが淡々として夕ぐれむとす
                    (三月号)

 写生とは事柄の羅列ではなく、事実の中からもっとも感動した部分を把握することであるというしごく当たり前のことを、この作者の歌に接するたびにあらたに認識させられる。
「みにくき心を今日も見たりしが」の背後にはいろいろな内容があっただろうが、それをこのように没細部的に単純に表現する手際は、やはり非凡と言わなければならない。

花の香に心を保つことすらに限りありと言へばかなしく
                    (三月号)

 これも単純きわまる歌い方で、厚みのある調べの中にほのぼのとした情感が流れている。
「山の雪にひと夜(よ)寝たりき純全(またき)にも限(かぎり)ありてふことは悲しく」(寒雲)からの影響は否めない。
この作者には茂吉の歌調をも巧みに摂取してそれを生かしている面が相当あると思う。

昭和三十八年一月号

 (漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)


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