吉田正俊の歌(つづき)
蘭の香はわが怠りを誘ふごと流れて今日の夕暮れとなる
(四月号)
この作者は、ごく自然な普通の言葉ばかりを使って、(しかしそれは吟味された言葉だが、)いわば吉田調というようなものを形成する。「蘭の香はわが怠りをさそふごと流れて」という所は、老人風の閑寂趣味にも取れようが、実は現代人の鋭い神経が潜んでいるので、いわゆる枯淡の境地ではない。しかしなまなまとした現実に接触しようという意欲が近頃少なくなってとは言えようか。
敏感に反応するのをいやしめて日のある中に帰り来にけり (五月号)
こういうのも、輪郭をぼやかした没細部的な表現というべきものであろう。こういう歌のうまさは無類といえる。「日のある中に帰り来にけり」も、何でもない表現のようで、見逃せないうまさがある。上の句の主観的な言い方と下の句の行為の表現には一首の配合意識が働いているだろうが、その辺をまとめる手際は実に老練というべきである。
たんぽぽのまだ萌え出づる界隈を東京にしてわが感傷す
(五月号)
これも一読して心惹かれた歌で、ようやく老齢に近づいた作者のしみじみとした吐息を聞く事ができる。歌詞はあい変わらず単純で、それは細かくゆらぐような調べではなく、一気に押すような太い調子である。こういう感味は、万葉でいえば旅人の歌などに似通うものがあるように思う。それからその作者は、写実的な表現の基礎は勿論おろそかにしていないが、近来ますます独自の主観的詠嘆を深めているようにも、今回感じ取られた。
昭和三十八年一月号
(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。) |