短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」


 「雪ふる音」について

いく重にも身の不自由はかさなりて命の終るときに至らむ
うつしみの崩(く)え極まりて閉ぢぬ眼に黒き眼帯を当てて眠るも
身のめぐり匂はずなりぬ斯の如き晩年にあふをかつて思ひきや
透きとほるガラスの中にあるごとく匂ひをきかぬふた年すぎぬ

 「むごくきびしきいのち」を病状に即して詠んだものを挙げてみた。おのづから表現の抑制があり、いたづらに露骨にならない点がよいと思う。そう言うのは、そうでない歌も世にはあるからである。

七月の二十日の午後に家を出き身を諦めし二十五年まへ
亡き母を今日は思ふにうつしみの崩るる吾を見たる亡き父
秋づきて澄む日の光父の死をけふ吾は知る十三年たちて
妻も子も在る人ながら外の世のことと思ひて副ひたり吾は
亡き夫が責めたる吾の幼さを現在の夫があわれむらしき
老い夫が或時吾をいたはりてかくることばの子に向かふごと

 自己の過去や系累を繰返し詠んだ歌をたどって行けば、作者の自叙伝が形成されるであろう。「雪ふる音」には、この種の歌も多い。癩園内で前後二人の夫を持った特異な境遇なども歌われているが、叙情詩としての域を守っていて通俗に堕さない。大体、どの歌もへんに小説的にならないところがよいのである。

昭和四十年八月号

(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)



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