歌集『雪ふる音』について
1月から連載しています、『雪ふる音』について一言記します。
作者、津田治子は明治45年に生れ、昭和4年18歳でハンセン氏病となり、9年熊本の回春病院入院、カトリックの洗礼を受けました。11年作歌を始め、「アララギ」に入会、土屋文明の選を、のち菊池恵楓園に移り「檜の影短歌会」で五味保義の選を受け、歌集に『津田治子歌集』『雪ふる音』があります。このうち、『津田治子歌集』は日本歌人クラブ推薦歌集(第2回)〔昭和31年〕となりました。
ふりすぐる雨に乾く間なき石よ立つ夕虹の淡くなりつつ
ゆく秋の月の光に紫蘇の実の匂ふが程の老いに入りにし
如月(きさらぎ)の月の光が響くかと冴えたる土のうへを踏み来つ
暁の空ひくくして黴のごと下りくる雨のなかの合歓木の木
澄む空に茜さしわたる夕ぐれの光のなかの梧桐のはな
年ごとにまがきに生ひし朝顔の種変りして白くなりたり
これらの歌にもやはり作者の境涯を無視できないものが背後にはあるだろうが、外界との接触を基礎とした作品を挙げた。感覚の冴えが見られ、観入も細かく、技巧も達していて、なかなかの力量の持主であることを思わせる。作者が病人でなかったら、こういう方面にもっと才を発揮したかも知れない。
なお「雪ふる音」には社会批判に類する歌はほとんど一首もない。その点が伊藤保氏の作品などとの大きな相違点ではある。作家としては幅が狭かったとも言えようが、それが欠点だったとも思わない。
たまのをの命をしぼり今一度癒えたくありけり老い夫のために
ただひとつ生きねばならぬ希ひあり苦しみを越えし今朝の光に
ただひとつ生きてなすべき希ひありて主よみこころのままと祈らず
死ぬべくは死ぬべしといふ心にはなりがたくしてながき苦しみ
命終に近い時のそれこそ「命をしぼり」詠んだこれらの作品は辞世とも見えようが、作者としては死期の近い事は悟ってもあくまで生に執着する心である。「主よみこころのままと祈らず」は、宗教的な感情が見事に生かされた絶唱と言ってよい。ここで言う「ただひとつの希ひ」とは、つまり「今一度癒えたくありけり老い夫のために」という希いだったようだ。
夫君谷幸三氏の、作者への深い愛情は歌集あとがきの簡潔な文章に溢れている。「雪ふる音」という歌集の題もこの人の希望に依るという。歌集出版を辛うじて見、間もなく津田さんの後を追って昇天されたという事だ。もう紙数がなくて書けないが、多少甘い言い方を許してもらうならば「雪ふる音」は、特殊な環境における中年を過ぎた夫婦の涙ぐましいような「愛の記録」であるとも言えよう。
「黒薔薇の日覆ひの下に病む夫婦ありきと言はれバラが残らむ」──バラは枯れても、この「雪ふる音」は長く残るであろう。
昭和四十年八月号
(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。段落も追加しています)
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