土屋文明の歌 (後)
異国のことばの中に育ちゆく幼等よその国のさいはひ受けよ(四月号)
遠きまた共にある子等その母を中にして一つかたまりをなす(十月号)
遠くある肉親を思う歌も時々見える。「異国のことばの中に育ちゆく」は、さりげない詠みぶりの中に深い感慨が潜んでいる。二首目の「一つかたまりをなす」の表現の是非はむずかしい所であろう。
落ちかはる朝々の花花なれば落ちてあはれと思ふにもあらず(短歌・八月号)
六月の天の時雨のひまありてあしたかがやく沙羅の白花(同)
「落ちかはる朝々の花」という句も、注意すればなかなか微細な神経の通った表現である。「花なれば落ちてあはれと思ふにもあらず」は、一種の理を思わせ、体臭のようにこの作者にまつわりついた感じ方であり、又句法であると思うが、私には「思ふにもあらず」と結句の打消語法で、はぐらかされるような感じに不思議な快感がある。「六月の天の時雨」は、万葉の「天の時雨の流らふ見れば」の時雨が梅雨をさすという自説に基づくもので、用意のある語である。この歌は又、形式美を意図したかと思われる程の整った歌だ。作者の表現は実に変幻自在というべきである。
この海は何国に到る岸に豚を飼ひて鳥がうじ食ひに寄る
(短歌研究・八月号)
野間池の夕市いまだ時早く水打ちてするめの二もり三もり(同)
柴やまに川のいはほにうら若葉大野郡のふぢなみの花(同)
湾静かに茂る小島も親しきに下之江を問ふ岬のかなたなりといふ(同)
これらの旅行吟も、実にのびのびとした歌い方で、或いは奔放に或いは端正にと、とらわれぬ態度は羨ましい限りである。
我が蘭の出来をほこらむ枯るる嘆かむ真顔に聞かむ君の亡くして(五月号)
こういう畳み込んだ句法を使い、屈折を持たせた表現も最近は著しく目立つ。先に引いた「遠きまた共にある子等」というのも、作者の切り拓いた句法の一つであろう。しかし時には作者の習癖のように感ぜられる事もある。右の歌も表現が騒がしくなる一歩前で危く止まったような感じである。
昭和四十一年一月号(続き)
(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)
|