短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」

 十一月号作品評 其一   富田重延 宮地伸一  (一)

川の水は絶えず音立て流れつつその形をも崩すことなし
                     柴生田 稔

 [富田] 下の句、石の間を下る谷水の常に一定の形を保つ姿を端的に捉え、沈静な作者の心をも象徴するかに思えたが、続く「川の瀬の絶えざる音を聞く時に我の心は安からなくに」を読み再びこの歌に戻った時、それは逆で安定した自然の姿に対比させて己の心の安らがぬ様を嘆く歌のように思われてきた。最初気になった四句末の「をも」もそう考える時納得がゆく。同じ素材で同じ心情を写すのに異なる表現を試みられた作と推察し感動したのである。

 [宮地] 読んですぐ方丈記冒頭の「行く川の流れは絶えずして」の一文を思い浮かべたが、あのような無常観を先立てたものではない。これは川そのものの形態を写実的に捉えようとされたように見える。そして「自然を歌うのは自己の生を自然に投射するのだ」という茂吉説に従えば、川の形態を写す表現のなかに作者の心がひらめいていなければならない。

 しかし前評者の「安定した自然の姿に対比させて己の心の安らがぬ様を嘆く歌」と解するのはよくないと思う。ほかの「我の心は安からなくに」の歌をここに引き入れるべきではあるまい。私は自然界の生起する現象の奥に潜む息づきのようなものーそうゆうと方丈記に近づいてしまうが―に作者は感じ入っているのだろうと思う。ただそれがこの表現で十分であるとは言えないような気もする。

 しかし柴生田氏の最近の作品が、従来と変わった特殊なそして即物的な感味を出そうと努めている点は注意したいと考える。「わが心あやしき川よ汝が名をば聞かずて我ら帰らんとする」などは特にそうだ。(こうゆう「汝」の使い方は、牧水などに先例がある。「夜半の海汝(な)はよく知るや魂(たま)一つここに生きゐて汝が声を聴く」などと。)

昭和六十一年新年号

(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)



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