短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」

 九月号作品評   其の一   宮地 伸一

ひそやかに語る会話に入り行かぬは耳遠くなりし故のみならず                 吉田 正俊

 「耳遠くなりし故のみならず」という屈折した言い方が、一首の奥行きを深くし、微妙な心のゆらぎを伝えている。この作者らしい没細部式表現の老巧な作と言うべきである。

残雪の輝く山雪消えて蒼く霑(うるほ)ふ山不幸な文学と言ひしは誰か             落合 京太郎

 前後の作からこの五月の、信州へ向う中央線の列車の窓よりの嘱目に基づくものであることが分る。上の句は少し長たらしいので、「残雪の輝く山雪消えて蒼き山」というくらいにすればよくはないかと最初考えたが、読み慣れるとやはりこのままでよいようである。ただし速口に詠む必要がある。

 この上の句から「不幸な文学と言ひしは誰か」という思索的な感慨に移る間の作者の心は、簡単に掴めるものではないが、忖度すればこういう自然界の風物に接する詠歌を繰り返す行き方、もっと広く言えば、写生写実にあくまでこだわるアララギ流の作歌法、それに対する批判を念頭に置いての作ではないかと思う。そういう批判に対する反批判の気持が「不幸な文学と言ひしは誰か」とつぶやくようにいう表現の中に働いているようだ。

 しかしまたこの作の前後にある「行々(ゆきゆき)て石荒れ水の涸れし県ミレーを購(か)ひ展観して代(しろ)を徴(と)る」「二山(ふたやま)より木精(こだま)呼び合ふ高野原疾(はや)き空気を恋ひ恋ひて来ぬ」のような意欲作は、「不幸な文学」という批判に対する一つの解答とみなすこともできよう。

 「不幸な文学」は、あるいは柳田国男の「不幸なる芸術」に由来するか。これは短歌には触れていないが、遊びや嘘の要素を失った現代文学の凡庸さを突いた文章であったと思う。

                  (続く)

(昭和五十八年十一月号より)

(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)



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