作品紹介

選者の歌
(平成26年2月号) < *印 新仮名遣い>


  三 鷹 三宅 奈緒子

俳誌興(おこ)していきいきともの書きてゐし一人逝きたり思ひ寄らぬ病(やまひ)に
作曲家の娘のこして逝きし君か朝ごと流るるその曲を聴く 菅野ようこ


  東 京 吉村 睦人

「万朝報」の婦人部記者たりし父「青鞜」の取材にて母と出会ひたりしか
計算すれば十六歳にて母は結婚せり三年飛び級なれば学齢は十九なりしが


  奈 良 小谷 稔

五年経て竜在峠を越ゆる今日つくづくと足も息もおとろふ
村役場は峠の篠を刈りそけてありがたしけふ四人の歩み


  東 京 雁部 貞夫

「とふ」といふ言ひ方歌人は好むらし暮らしの中にて使はぬ言葉
「満」といふ言葉は歌の敵(かたき)とぞ満月すなはち望の月とす


  さいたま 倉林 美千子

明石の戸に唐荷(からに)と呼べる島ありき加羅爾(からに)はそこに漂着せしか
わが裡に緊張は快く訪れて初めてまみゆる人らと居りぬ


  東 京 實藤 恒子

十二年目の講座引き受けほんのりとにほへる十月桜を仰ぐ
もし何かが起こらばいかに核燃料取り出す作業は綱渡り的


  四日市 大井 力

友の情けの朝の藷のひと切れに清められゆく腸(はら)の穢れか
医師の指示に食ふ物制限さるる身を嘆くにあたかも頭上鯖雲


  小 山 星野 清

「人はどんどん死んでいく」とてつぶやかれし八十八歳の文明先生太平山にて
人は皆死にゆくものと顧みてくり返されしみ心思ふ



運営委員の歌


  福 井 青木 道枝 *

入院のこの朝となり唯ひとつ選び加えるはバッハの楽譜
「たとえ身に何が起ろうと執刀の医師を責めるな」医なる子の言う


  札 幌 内田 弘

瞼晴れ朝を起き来る五十八ほら遅れるぞ二年で退職
靄のたつ中に中秋の月昇る函館本線の軌道がズレてる


  横 浜 大窪 和子

子規顕彰短歌大会の壇上に君しづかに語る子規を左千夫を  倉林美千子氏
思ひがけぬひとよりかかり来し電話いかなる経緯たどりしものか


  那須塩原 小田 利文

振り返ればもつと寂しいと思ひつつ振り返らぬ子の背を見送りぬ
雇用率上がりて障害者求人の増えしといへど非正規ばかり


  東広島 米安 幸子

目を閉ぢて味はひましし「二人静」母に最後の甘露となりし
星群を抜けて宙(そら)ゆくひとつ星意外に早く瞬かずけり


  島 田 八木 康子

市場には出でぬ野菜も楽しみに寄る朝採りの小さなる店
餅を伸(の)し小豆餡炊く季が来ぬ夫が好めば春たけるまで



若手会員の歌


  東 京 加藤 みづ紀 *

電車待つ朝は新聞手に並び帰りはスマホに見入る人々



  所 沢 斎藤 勇太 *

獅子柚子のごつごつとした感覚が脳に伝わる手指(てゆび)通して



  奈 良 上南 裕 *

始業ベルと同時に鉄を削り出す研ぎ終えし刃を脇に揃えて



  高 松 藤澤 有紀子 *

経本にかじりつくごと経を誦す髪の長い新人僧侶は




先人の歌


中村憲吉 最晩年の歌

病み臥せば吾(あ)に正月のかかはりなく今日はきのふの続きのごとし
病むわれに妻が屠蘇酒をもて来ればたまゆら嬉し新年にして
庭木々の深雪(みゆき)のしたに咲きのこる紅山茶花(べにさざんくわ)はあわれなりけれ
雪ふかき池をさわがすは何ならむ夜はふけしづむ鯉跳ねしより
病む室(へや)の枯木の桜さへ枝つやづきて春はせまりぬ
吾が病癒えなばゆきて奥津城に居給ふ君をゆりてもおこさむ(平福画伯を悲しむ)

 中村憲吉は、明治22年(1889)広島県県北の地主・醸造業の家に生まれる。若くして『アララギ』同人となり、赤彦・茂吉・千樫・文明らと編集に、また選歌にも携った。昭和5年肋膜炎を患い以後、転地療養を重ねるも、昭和9年5月5日尾道市千光寺公園傍の仮寓にて逝去。46歳であった。
赤彦との合著『馬鈴薯の花』をはじめ、『林泉集』『しがらみ』『松の芽』『軽雷集』・『軽雷集以後』(遺歌集)などがある。 
生家は大切に保存され、あたらしく「中村憲吉記念文芸館」も設けられている。

                     

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