作品紹介

選者の歌
(平成29年10月号) < *印 新仮名遣い


  東 京 吉村 睦人

波の寄る渚のごとき雲ありて沖に二つの島も浮かべり
わづかに残りてゐたる煉瓦塀ビル建替へに取り毀されぬ


  奈 良 小谷 稔

月冴ゆる冬のある夜思ひ立ち電車に乗りて明日香を訪ひき
峠にて最後に残る家を守り風呂焚きてゐし媼忘れず


  東 京 雁部 貞夫

われに隠れ煙草喫(す)ひゐし昔の生徒二、三人なに悟りしか今は喫はぬと
生徒らと煙草の害説く映画見き黒き肺臓にをののきたるに


  さいたま 倉林 美千子

消灯は四階より上病棟ならむ幾百の歎き沈めて静か
病棟の一筋点る踊り場に人ひとり動かず八階あたり


  東 京 實藤 恒子

耐へがたくもだえ苦しむをユーモラスに書きたる子規の未刊の「煩悶」 
書くことは生くることと最期まで「仰臥漫録」「病牀六尺」


  四日市 大井 力

濯ぎものする母の背に呼びかくる夢より覚めて闇に目をあく
嗅覚神経に直結の海馬のおとろへを知れと納豆茗荷匂はず


  小 山 星野 清

わが車の査定に来しはペンを持たず隅々までデジカメに写してゆきぬ
まだ走る車を払ひ換へなむか安全支援装置たのみて


運営委員の歌


  甲 府 青木 道枝 *

「なに持っているの」と問えばクローバー二本握れる小(ち)さき手を見す
叱りくるる人を求めて唾を吐く三歳のこの男(お)の子のこころ


  札 幌 内田 弘 *

俄雨に濡れるベランダに今植えしトマトの苗が直立しゆく
乗る子なきブランコが夜の公園に風なきままに揺れ続きいる


  横 浜 大窪 和子

総ての機械送り出されし工場の広がりの中ただ立ちつくす
古りし機械なほ働くか整備されてベトナムに向け売られゆくといふ


  那須塩原 小田 利文

その思想を熱く語りし教授ありき記憶に残るはグラムシの名のみ
肥えし豚に痩せしソクラテスにもなり切れずただ山桃の実を仰ぎゐる


  東広島 米安 幸子

夏されば嘆き深まる広島に八月六日の登校日廃止さる
もろびとの讃ふる九条それよりも核の傘とは誰がためなるや


  島 田 八木 康子

堪忍袋の強度容量まざまざとこれでいいのか国のトップが
傍若無人に振る太き尾に体幹のつひによろめくごとき政権


  柏 今野 英山(アシスタント)

海の辺に亀甲墓の並びゐるニライカナイの楽土を向きて
大き墓の間(あはひ)に小さき石祠この世の格差のままに続かむ




先人の歌


樋口 賢治の歌   樋口賢治全歌集<春の氷>より

雪とけし岸にかぎろひの立つ今日をひとり来ればただ汝(なれ)を恋ふ
この川を渡りて葬(はふ)りたりにしも遠き過ぎ去(ゆ)きにもあらずして
待ち待ちし春も近しと思ふにも目の前の川を氷流れ行く
雪しろのみなぎる中にかたまりて落ちたる雪のしぶきをあげぬ
みなぎらふ川の中らを春の氷ながれつつ行く永久(とは)に思はむ

 樋口賢治は「アララギ」選者、昭和五十八年死去。七十四歳であった。この歌一連は順子夫人を亡くした七年後の作。1首目の汝は順子夫人である。春の氷に寄せて夫人を思う心が哀切である。一連の歌は直接亡き順子夫人の命を凝視する「春の氷」前半の歌より、この春の氷に寄せて詠っている作の方が叙情的である。順子夫人は三十七歳の早逝であった。


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