作品紹介

選者の歌
(令和2年4月号) < *印 新仮名遣い >


  東 京 雁部 貞夫

遠く来て宮川の辺に酒くめばまざまざとして君が面影
ビートルをあやつりみ空を駈けてゐむメリー・ウィドウ大下宣子甲虫ビートル はVW車の愛称)


  さいたま 倉林 美千子

踏みゆくも降りくるものも銀杏の葉今日歳の市社の杜は
中学生にて連れ立ちし日を思ひ出す今日六十をこえし子とゆく


  東 京 實藤 恒子

介護ホームよりわれらに逢はむと来し百歳矍鑠として眼かがやく
それぞれの友らと握手しその友と出合ひし日のことを確かにいへり


  四日市 大井 力

カイバル峠に蝶に出会ひたる縁が青年医師の運命決めぬ
百の病院より一本の水路と医師の手に重機繰りにきアフガンの地に


  別 府 佐藤 嘉一

雨音のかすかに聞えて西窓に幅二キロばかりの虹の立つ見ゆ
朝の日に輝き十五分間に消ゆるまで冬の虹見てカーテンを閉づ


  小 山 星野 清

暇ある身にて朝より刻々と傾くビルを映像に見き
部屋の中を飛び交ふ家具に戦きし地震を言ひき神戸の友は


  柏 今野 英山

平和とは戦ひののだましあひ『悪魔の辞典』に不幸な真実
「政治とは私腹のため」と言ひ切りしビアスの言葉は今も変はらず


運営委員の歌


  横 浜 大窪 和子

ジャララバードの路上に逝きし医師の棺悲しみ担ぐ人らの映像
立場違へば殺めて正義といふ思考もう止めないかこの人の世に


  能 美 小田 利文 *

マイク手に語られる口調そのままの「選歌後記」を今宵読み継ぐ(吉村先生)
叔母が笑ふ動画をLINEに見てをりぬ帰省せざりし正月の夕べ


  生 駒 小松 昶

亡き母の長く恋ひゐし香久山を歌の友らに導かれゆく
紙垂しでまとふ真二つに裂けし大き岩割れ目に白き層のきらめく


  東広島 米安 幸子

旅にありし二十五年前一月十五日サハラの最北目指せりわれは
一行の神戸長田の果物屋さん成田に別れき今に思ほゆ


  東 京 清野 八枝

「アメリカ死ね」と群衆連呼する映像を果てなき報復恐れつつ見る
報復を互に恐るる疑心ゆゑ民間機撃ちたり機影に脅えて(イラン誤射)


  島 田 八木 康子

遠き日にそらんじしあれこれ唱へゆくMRIの轟音の中
「曽根崎心中」の浄瑠璃本は通学の行きに帰りに暗誦しにき


  小 山 金野 久子(アシスタント)

スカイプもラインもよけれどエアーメール届くは嬉し繰り返し読む
鹿も栗鼠も共に棲む町ハリソンの冬は長いと娘の便り



先人の歌


 令和元年九月に上梓された三宅奈緒子全歌集に関しては、すでに「新アララギ通信」にて紹介されております。その中で最も作品数の多い未刊歌集「井の頭の道」の中から、作者最晩年の連作を取り上げたいと思います。叙景と抒情が綯い交ぜにになって醸し出されるこの秀作を深く味わってください。

三宅奈緒子全歌集収録 「井の頭の道」

「今日は今日の若葉」より十首

直下地震を言ふとも何せむ今日は今日の若葉かがよふ園の径ゆく
おのが身のすすがるるごと若葉の園ゆきて白雲木はくうんぼくそよぎ立つ下
深き緑に鬱金うこんざくら咲く一隅はひそけし稀れに人の声して
とめどなく散る花の下低き声に言かはしつつ老いの行きたり
その名こほしき駿河台匂その樹下に立ちゐておもふ今亡き人々
単調にく水の音人まばらに花咲く前のしづけき薔薇園
澄み澄みしカリヨンのひびき薔薇園のベンチに聞きてときながくゐる
心かよひし一人の友の亡きことも思ひ沁む今日の明るき園に
幾度となくベンチに倚りてやうやくに園めぐり終ふ杖曳きながら
折々の惑ひを持ちてとき々にこの園歩みし日月茫々


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