作品紹介

選者の歌
(令和2年10月号)


  東 京 雁部 貞夫

玄奘を耶律楚材をたふとびて西域見ぬまま世を終へましき 落合京太郎先生
崑崙の雪の高根たかねのあかね雲仰ぎし日あり倖せとせむ


  さいたま 倉林 美千子

九十五歳スマホデビューして手放さず俺もこの世の一人と言ひて
コロナが奪ひし吾の脚力つづまりは遠い旅への憧れもまた


  東 京 實藤 恒子

花筏いろ濃く漂ふけさの運河コロナの鬱をしばし忘るる
わが前にホバリングする雀一羽思はずうまいねと声をかけた


  別 府 佐藤 嘉一

戦争を繰り返しては地球を荒らす人間に怒りてコロナ生れしか
買ひしばかりのシルバーカーを押して行く妻見れば急に老いしと思ふ


  四日市 大井 力

深き目を向けくれて既往症いくつ持つ身いたはれと諭し給ひぬ
検査結果どうあれど開腹を望まずこのままありのままにて


  柏 今野 英山

亡き父の給与明細いできたりみんな貧しい戦後の暮らし
洗濯したたみし服を捨てむとす拭ひきれないわが親不孝


運営委員の歌


  横 浜 大窪 和子

幼くて父を失ひし汝はいま同じ運命の少年の父に
朝かと覚めし午睡の後の窓の辺に唯たどきなく暮れゆくこころ


  能 美 小田 利文

子の未来案じて語る母親に対へり透明なシールド越しに
一年のオーディオ三昧と一冊の歌集出したし生き存へて


  生 駒 小松 昶

納骨と一周忌法要取りやめて見通し立たぬを母に詫びたり
レストランのトイレ避けむと鋤焼きの二時間半を飲み物摂らず


  東広島 米安 幸子

青年一人加はる会をよろこびて帰れば涼しきかなかなの声
かなかなの鳴く七月は母の月わが四十九の喪主にてありし


  東 京 清野 八枝

蕾ひらきしダチュラの香り詠みましし先生思ふその花陰に  三宅奈緒子先生
閉店の張り紙残るガラス越しに見慣れしミシンありあるじ無きまま


  島 田 八木 康子

使ひ切りし記憶すつぽり抜け落ちておたおた捜すことの増えたり
売り買ひはせぬ事とだけ釘刺され倍となりしか六年を経て


  小 山 金野 久子(アシスタント)

籠り居るひとりのわれに現れて夜半の部屋ぬち小さき蜘蛛這ふ
夫とわれの古きパスポート手に取ればサンタモニカの夏空広がる



先人の歌


今回はこの欄を借りて、ホームページお休みのためご紹介できなかった新アララギ9月号掲載の選者等作品を、一首ずつですが紹介いたします。

桐の箱開くれば墨の香漂ひて息づく如し文明先生の文字 文明先生、昭和十三年
                   雁部 貞夫

九十五歳の夫と労りあふ暮らし終はるは何時かハナミズキ過ぐ
                   倉林 美千子

戦前より筑豊に火薬商を営みし父を継ぎ弟はいそしみたりき
                   實藤 恒子

常に風邪をひきてゐたりしに九十歳まで生きてゐるとは思ひみざりき
                   佐藤 嘉一

残されし刻のかたちかひつそりと疫病えやみを避けて籠れるすがた
                   大井 力

群るることを入学式に咎められ如何なる未来を児らは迎ふる
                   星野 清

年ごとにその袋かけ手伝ひし白桃を待ち待ちき子供ごころに
                   今野 英山

遠き日に住みにし家の窓ひとつひらくことありが呼ぶとなく
                   大窪 和子

今朝ひときは輝く白山仰ぎ見ぬ六十一歳を吾は迎へて
                   小田 利文

後の世を頼めぬ吾の残されて役終へゆきし父母思ふ
                   小松 昶

盛んなりし面影とどめて立たすごと今年九本のアカンサスの花
                   米安 幸子

洋館を背に薔薇園を撮る人ら花の香を嗅ぐマスクはづして
                   清野 八枝

枇杷の葉に盛られし枇杷にその重み無き絵見てゐる如き違和感
                   八木 康子

我が庭にさやかに勢ふアガパンサスその名たどれば愛の花とぞ
                   金野 久子


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