作品紹介

選者の歌
(令和3年3月号) 


  東 京 雁部 貞夫

字も書けぬ歌も浮ばぬ空白のかの数箇月何のありしや
神経が奇跡の如くつながるか祝儀不祝儀二十通書く


  さいたま 倉林 美千子

白髪はやしんに堪へざり歳の市もコロナに無くて籠り過ぎ行く
夕日の色畳に落ちて父母ちちははのいましし家も静かに古りぬ


  東 京 實藤 恒子

ゆつたりとしてぱつと明るく健康なさびしさにあふるとわが歌の講評
銀杏黄葉に足埋もれつつわれは老いぬよろこびのみが蘇り来て


  四日市 大井 力

枕元のノートにありし歌三首「葬儀は不要野良に灰撒け」
命終の前日の朝も自転車の田めぐり変らず終へたるといふ


  別 府 佐藤 嘉一

十二月八日は土屋先生のご命日『ふゆくさ』の後記を早く起きて読む
段差あるに気付かず転倒せしことを帰り来りて妻には言はず


  小 山 星野 清

十代の終りの頃か弾きたくて「エリーゼのために」を独り習ひき
確かなる音紡ぎ出だすかの指の忘れ難かりき中村紘子


  柏 今野 英山

酸素チューブ付けて別れを言ひきたり痩せさらばへし幼なじみは
ワンマンの友をたくみにかはしゐし妻君の挨拶涙に途切れとぎれに


運営委員の歌


  横 浜 大窪 和子

六人をなぜ拒みしか核兵器禁止条約に批准せぬ政府
ショーン・コネリー死去の話題は避くるべしきみより一つ歳若ければ


  能 美 小田 利文

若き日に読みてその意味わからざりし「たゆし」を今は吾が身に覚ゆ
貴しと思へるほどに白山の頂は白し雲突き抜けて


  生 駒 小松 昶

眼差しが音楽を決めるとおもむろに指揮者はうるむまなこ見開く
六十五歳に始めしヴィオラ日に半時間さらふを課すも小指届かず


  東広島 米安 幸子

「宮地伸一作品合評」に導かれ命こもらふみ歌いまに息づく
「北満にて」と書き入れ賜ひし星の歌それより吾には永久なるみ歌


  東 京 清野 八枝

蒼き海に一筋伸びし橋の白さ忘れ得ざりき飛行機の窓に
珊瑚礁のましろき砂地透かしつつエメラルド色に澄めり宮古の海は


  島 田 八木 康子

一面に蔓薔薇の咲くこのエプロンやうやく程よき色に落ち着く
目新しき切手は買はずに居れぬ我今日は惑へり使ひ切れるか


  小 山 金野 久子(アシスタント)

パンデミック医療現場を伝へし歌われは慄き息詰めて読む
疫癘の消え去る日のあれ朝あさを無力のわれはただ祈るのみ



先人の歌

 歌集『門出』 小松三郎 出月雪子 著

 序 歌          土屋文明
邦夫君墓畔
天にある幼み霊のあそぶらしあさ日かがやくほほの白花
                 五味 保義
花匂ふあけびの下にバット置く机ありき行きて少年の聲を聞きにき
     ***********
                 小松 三郎
隣室に眠れる吾が子の病重し夜半に目覚めてわれは悲しむ 
己が子の病のもともその豫後も己れ知るゆゑわれは苦しも
われの診る他人ひとはやすやす癒えゆくになど己が子の病は癒えぬ
心臓は日に日に左に肥大して傍観をするこの父あはれ
むらぎもの心怖れて庭掃けりわが子の命あるひは危し
新しき中学生の服を着て棺のなかの髭伸びし顔
病める子に見すべく造りし庭池に散りし桜の花すくひ上ぐ
横切る時邦夫は吾が手を握りしめき尾張町交差点にわが思ひ出づ
                 出月 雪子
臨終の汝が苦しみをいかにせむ汝がこの母は爲す術もなく
たまゆらに呼吸いきは絶えたり握りしむる汝が手やはらかにかくあたたかき
母われを呼びし汝が聲とことはに聞くすべなきかわれを呼ぶその聲
年毎に此の家櫻花咲かば嘆きはつきじただ一度汝が見き
末の子とあまやかしめていつくしみき亡き今はわが慰めとせむ
        ***********

 小松三郎(本姓出月)は、大正十五年九月東京大学医学部在学中(二十六歳)アララギ入会。土屋文明に師事。「外科の出月」と内外に称される著名な国手。昭和四十二年(六十七歳)アララギ編集委員選者となる。五十七年(八十二歳)四月号にて病気のため選者を辞退。昭和六十二年十二月逝去(享年八十七歳)。「アララギ」一千号記念特集より抜粋
挽歌集『門出』 此の歌集の内容は、昭和二十七年四月十六日に十二歳で忽然としてこの世から去った次男邦夫を追慕する歌に終始している。病名は心臓内膜炎であった。死去の日から二十八年十月まで約一カ年半の小松三郎の歌三百三十四首と雪子夫人の歌四十首がおさめられている。   


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