作品紹介

選者の歌
(令和3年8月号) 


  東 京 雁部 貞夫

菴没羅 あんもら の熟れし実ふたつ卓におく本邦産の くれなゐ 濃きを
若き日のコレット女史の写真あり「ボブ」のはしりか百年前の


  さいたま 倉林 美千子

夫の異変に気付きしは午前二時のこと「一一九」心は冴えて衣服整ふ
救急車の若きらに担はれてゆく見れば勲三等も役には立たず


  東 京 實藤 恒子

墨象家の篠田桃紅百七年の一世を生き切りけふ逝きましぬ
気宇壮大は大連生まれと関はりあらむ水墨画と抽象絵画の融合


  四日市 大井 力

ふるさとの竈の前に置かれゐし火消壺ちりちりと音を立てゐつ
火消壺に酸素の尽きて消ゆるおきに連想す宇宙に亡びゆく星


  別 府 佐藤 嘉一

小倉まで三十一里と記しし道しるべ尋ねて来れば跡形もなし
銃担ひ汗にまみれし兵の列が道しるべの横を駆け行くを見き


  小 山 星野 清

年寄りは出て歩くなと言はるる世ただ生かされてをればよいらし
毎日は生きる張りなき家ごもり生存権を誰に訴へむ


  柏 今野 英山

つづら折り箱根の上りをひたすらに君走りしか面影に見ゆ
箱根路をとほる度ごと悔いつのるここに冬越えせしか吾が子は


運営委員の歌


  横 浜 大窪 和子

心離れ会ふなき人とひとときをほのぼのと居し夢に温もる
めづらしき薄紫のハルジオン小道に摘みきて傍らに挿す


  能 美 小田 利文

吾もまた「エッセンシャル・ワーカー」の類らし履歴書の職歴欄に書かむか
ウイルスは変異しワクチン打てぬまま日々を働く福祉の現場に


  生 駒 小松 昶

初めての孫をこの手にしかと抱く斯く詠み得ざりしみ心偲びて
予防接種に薬二粒手渡さる頭痛発熱にも出勤せねば


  東広島 米安 幸子

かぐはしき薔薇の香ただよふ朝のデッキ深く呼吸 いきして一日を始む
われを待つごとく散りゆく花片のひとひらひとひら匂ふ愛しさ


  東 京 清野 八枝

娘の憂ひ聞きつつ了へし昼食に熱きコーヒー運ばれて来ぬ
ワクチン接種何ゆゑかくも進まぬか自ら作れぬ日本口惜し


  島 田 八木 康子

わが母の顔に似て来しと子が不意に鏡の我に呟きて去る
心も身もこんなに軽し半月を経て出できたる失せ物ひとつ


  小 山 金野 久子(アシスタント)

二回目のワクチン打ちしと米国より明るきの声母の日の朝
時くれば叶ふだらうかコロナ禍の首相談話をもどかしく聞く



先人の歌

 今月は三宅奈緒子先生の第一歌集『白き坂』』(昭和37年刊行)からの歌を選びました。
 先生は1991年「アララギ」で初の女性選者になられ、1998年「新アララギ」創刊とともに長く選者を勤められました。2016年9月に94歳で亡くなられましたが、ホームページ上の短歌雑記帳には「新アララギ作品評」並びに「選者をやめるにあたって」の言葉が掲載されております。

稲田はるかに黄に耀けば歩みとむあはれあらたに吾は生きたし
何から何まで要領悪く生くる吾を情けなしともすがしとも思ふ
どんな未来をもつのか光る朝潮に手をふり呼ばふ少女らのむれ
遠くまでらふ砂浜少女らは青き水着を滴らせゆく
もつとはげしく吾を揺る友ひとりあれ平凡な日ぐれを今日も帰るに
橇曳ける子らを見てゐしが寂しくなり光りつつ来し電車に乗りつ
野菜籠にひとりのパンを提げながら月はやくたつ坂をおり来つ
梧桐あをぎりの葉わたる風に出でてゆくわが住む部屋の鍵ふりながら
山鳩が啼くとしばらく聞きゐしが陽の移ろひにまた眠りたり
たちまちに濃霧ガスが火口をおほふさま風吹くなだり立ちて見てゐつ
人責むるこころにたどきなかりしが夕べピーマンを青くいためぬ
ひさびさに橋渡り来て葛若葉ひるがへるさま見れば慰む


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