落合京太郎は1955年から1991年まで「アララギ」の選者だった。1905年に生まれ、20歳でアララギに入会、翌年1月から出詠している。土屋文明に師事し、裁判官として司法に携わりながら作歌活動を続け、1991年4月に85歳で没した。
小谷稔は「落合京太郎の孤高のリアリズム」のなかで、「客観と自在によるリアリズムの豊かな可能性を見る」と評し、「巨大な自然の迫力に満ちた歌」「男性的で意志的な歌」の例として、富士山を詠んだ1987年の作を挙げている。
・ 天に懸る山の骨見えて落下つづく自壊作用のとどろき聞こゆ
雁部貞夫は「いま伝えたき歌—落合京太郎再読」のなかで「自在な詠法、大景観の切りとり方、自然の色彩の変化の把え方」に特徴を見ている。
・ この峡谷にいま沈む月の太る頃海越えてあらむ我は日本に
グランドキャニオンを詠んだこの歌を雁部は「時間と空間の変化を余すことなく一首のなかに包みこんだ作例」と称揚している。
落合は生前に敢て歌集を出さなかった。遺族の手になる『落合京太郎歌集』には、1948年の作として「昭和19年1月16日 空路南行」と詞書のある一連がある。1942年8月、37歳の落合は東京民事地裁部長から陸軍司政官に転じ、馬来軍政監部司法科に勤務した。当初の任地はシンガポールだった。戦局の激化にともなってマレー半島を北上し、クアラ・カンサー、タイピン、イポーなどへと移動した。翌年、終戦の年の11月からはシンガポールの南、現在はインドネシア領であるレンパン島で抑留生活を送り、翌年5月に復員船で帰国している。
・ 透きとほり灼けし機関より火焔噴く暗き暁を立たむ飛行機
・ 轟ける空のまほらに朝明けて光を包む雪やまひとつ
・ 雪ひかる国の高山をふりさけて天なるや今編隊を組む
・ 機銃座をまだ装置せず空輸する十八年十二月製なり此の重爆機
任地のマレーから業務出張として日本に帰国し、ふたたび任地に戻るために軍用機に搭乗しての詠である。薄明に離陸しようとするエンジンが赤く熱し、標高の高い冬山を背景に編隊を組んで飛行する。戦時中の軍用機による移動である。事故や戦闘によって生命にかかわることは珍しくない。
・ 屋久島は雪耀きて迫れどもほのぼのと平かに種子島見ゆ
・ 雲の中に暗くなりつつ肩越しに方向盤の蛍光燃ゆる
・ 着水すと思ふばかりに遥か下に誘導機見ゆる位置保ち飛ぶ
・ 屋久島を過ぎ幾時か雲の中雨の中をきて青し一月の島
・ 誘導機の赤き尾灯の明滅してほのぼの明けの空の上にあり
・ 陽を受けてわが右側を飛びてゆく窓に明るき中が見えつつ
空中を航行する速度感、高高度で体験する壮大な三次元の感覚、そして軍用機内外の情景を正確に描写している。そして、一連では、この先、経由地や目的地の東南アジア世界が描かれていく。
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