今月の掲示板へのコメントの中で落合京太郎の晩年の歌を紹介した。その歌の再掲を含め、私にとって忘れ難い、アララギ歌人の晩年の作品を取り上げてみたい。
土屋文明 『青南後集以後』より
草の葉もさやぎを止めししばしの間すぎゆく時のこゑのきこゆる
しづかなる夜の空気に目をあけぬ長き短き人のあり方
忘れゆく思ひ出の中ある時は生き生きとしたる山の姿あり 湖の上を争ひさかまきゆきし白雲相馬ヶ岳を包まむとする
吉田正俊 『過ぎゆく日々』より
病室より吾が見得る空は限りあれど数々の思ひ浮かびては消ゆ
わが体今しばらく薬の棄てどころと客観視得るまでになりぬ
四五分でいいから何も考へずに居りたしと願ふこの日頃われは
退院は近しと告げられ目に浮かぶ咲き靡きゐむ琉球月見草の花
落合京太郎 『落合京太郎歌集』より
「電話かな」と
呟く闇に「他所ですよ」と寂しき声す影は見えなく
大正十四年十月新参の小僧にて平成三年一月二十三日
現残れる放屁一発
生きてゐる意識は上の空にして何かぶち当る空を落ちゆく
寝釈迦となり糞は出るままにまかせ置く南無阿弥陀仏ナムアミダブツ
詠まれている内容は「晩年」のものであるが、歌そのものは気迫に満ちており、「アララギ」誌上で読んで圧倒された当時の思いが、今も生き生きと蘇ってくる。 |