「伊藤左千夫の九十九里詠」(小谷稔『アララギ歌人論』より。表記は一部変えてある(小松))
左千夫は出身地に近い千葉県の九十九里浜の歌を何度か作っている。
A(明治42年)
・人の住む国辺を出でて白波が大地両分けしはてに来にけり
・雨雲の覆へる下の陸広ろら海広ろらなる涯に立つ吾れは
・天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾いひ居り
・白波やいや遠白に天雲に末辺こもれり日もかすみつつ
・高山も低山もなき地の果ては見る目の前に天し垂れたり
・春の海の西日にきらふ遥かにし虎見が崎は雲となびけり
・砂原と空と寄合ふ九十九里の磯ゆく人等蟻の如しも
茫洋とした大自然に対峙してその大自然を併呑するほどの雄渾な格調をなしている。それ以前の
B(明治32年)短歌三首
・あかときの夢おどろかしあまの子らがよぶ声きこゆ船おろすらし
・荒波の白なみのりこえ二小舟沖べをさしてはやこぎいでつ
・舟皆は真梶しじぬききほひあひてあがりつおりつ浪のりこゆる
は、子規以前とは思えない万葉調が見られる。また、 C(明治35年)短歌三首
・人皆の遊ぶ睦月を波枕矢刺が浦に吾は来にけり
・白砂のかわける浜にかまめかもふめる足跡あやにめづらし
・浜原に風が砂ふきなれるかたいもし秀真に見せまくおもほゆ (かた=形、いもし=鋳物師・鋳金家)
は子規に学び、それぞれ、大柄な万葉調、忠実な写生、軽妙な趣向が出ている。が、こう見ると、BやCは習作的な段階のもので、Aのような稀に見る豊潤、雄渾、荘重な雄編に到達し得たことは瞠目に値する。その契機となったものの重要な一つは、明治三十七年に始まった信州の山を主とする自然との接近であると思われる。Aの歌までに6回も信州を訪ねている。
D(明治37年)
・天そそりみ雪ふりつむ八ヶ岳見つつをくれば雲岫を出づ (岫=峰)
・久方の青雲高く八ヶ岳峰八つ並ぶ雪のいかしさ
・北山の夕照る岡に立つ吾を遠にとりまく信濃群山
雄渾な信州詠、骨太の写実で堂々たる調子であり、左千夫の山岳詠の開眼である。自然の要所を確かに把握して観念的な形式美を脱している(下線―小松)。
E(明治39年)「蓼科游草」より
・蓼科の山の奥がと思ひしをこは花の原天つ国原
・雨雲のいや遙けくと晴れし日に下つ国原見ゆるかと思ふ
・天つ野のほたる袋の花ぬちに一夜ねにきとよべ夢に見し
・朝湯浴みて広き尾のへに出でて見れば今日は雲なし立科の山
・きのふ見しおくの沢辺の花原を猶こほしみと又のぼりきぬ
Dの八ヶ岳遠望とは異なってその山に入り宿るという接近と、左千夫を素朴な敬愛の心で歓待した信州の歌人たちへの親愛は左千夫の抒情を理想的に醸成して写実と抒情が渾然とした調子の中に一体となったこの作者独自の世界を見せている。これらの山の秀吟を生んだ余勢を駆ったかのように、Fが作られた。
F(明治40年)「磯の月草」
・九十九里の磯のたひらはあめ地の四方の寄合に雲たむろせり
・秋立てや空の真洞はみどり澄み沖べ原のべ雲とほく曳く
・ひさかたの天の八隅に雲しづみ我が居る磯に舟かへり来る
・ひんがしの沖つ薄雲入日うけ下辺の朱けに海暮れかへる
・わたつみの磯の広らに三人居り八すみ暮れゆく雲を見るかも
浜に注意が向けられ空が詠われていない35年のCと比べ、全く面目を一新している。空や雲を詠いこんで、雄大さを醸している。
G(明治41年) この年は3回も蓼科に行った。「蓼科雑詠」より
・白雪をかざしによそふ蓼科の麓のみ湯にのどに籠らむ
・天地のなしのまにまに黙し居る山も晴れては笑める色あり
D,E,Gにおける八ヶ岳を遠望した崇高感、蓼科の温泉に象徴される人間を抱擁する温かな自然、また蓼科の「花の原天つ国原」という浪漫的な自然など、左千夫の自然を見る目はこまやかに自由に広がりを見せている。そして、Aが作られたのである。
Aは左千夫生涯の傑作として知られるが、Gと比較してさらに進境が著しい。土屋文明は「一層単純化され、線が太くなり、象徴的に進んでいる」と述べている。生まれてから常にその波音を耳にしていた九十九里浜は左千夫にとりこの上なく親しい自然である。が、「人の住む、、」の歌には親しい優しい海ではなく人界を隔絶した処に天地創造の日のままに白波が海陸を両断している蒼古で厳粛な景がある。文明の言う「象徴的」の代表である。
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