| 松尾富雄  昭和14年アララギ入会。戦争をリアルに詠い土屋文明に認められて有名になった渡辺直己の友人。呉の高校英語教師。呉アララギ会は昭和10年に扇畑忠雄が呉に2年間居た間に盛んになり、土屋文明を2回呉に招いて歌会を開いたりしたが、扇畑が呉を去った後から戦後にかけて松尾富雄がこの会の中心となって活躍した。戦後、会員として「アララギ」の集T欄に長く投稿。歌集は「水照波(みでりなみ)」と「鳰の住む沢」の2冊。  歌集「水照波」の後記から一部分を紹介する。「私が歌をはじめたのは、もう三十に近い歳であった。歌の勉強には遅きに失する時期である。アララギの存在も知らない一英語教師が歌を作るというのであるから可笑しなことであった。当時の私の上司であった加藤菊三郎校長がある日私を呼び出して歌など作っていては職務が疎かになるとひどく叱りつけたことがある。同僚に横路百々作という会員がいたが、彼もこの校長に受けがよくなかった。地理の教師であったからである。もう一人渡辺直己がいたが、これは国語教師であったので別のことであった。渡辺とは中学も同期であったので格別親しい仲であった。誘われるままに、あちこちを吟行したのも今ではなつかしい思い出である。(後略)」
 (表記は新仮名遣いに直しました。)
 歌集「水照波」より・海の上つらなめ帰る鳥がああ逆光線となりてはるけし
 ・今宵思ふは渡辺直己のことにしてゆで卵好みしこともあはれなり
 ・夕ぐれて向きかはりたる船一つ入江に早く灯をともしたり
 ・しらじらと沖のくもりに波あがり千年塩田ゆふぐれむとす
 ・あと七年生きて下さいといふ妻に素直になりてうなづかむとす
 ・残るいのち惜しむ歌あれば涙出づ君が遺歌集に〇つけてゆく
 歌集「鳰の住む沢」より・うぐいすの幼き声を聴きとめて長く病み臥す妻のよろこぶ
 ・のぼり来し峠の山の山陰にウラン工場門を鎖しぬ
 ・吹く風のつむじとなりし夕べにて孟宗の上に月立ちにけり
 ・リス一つ去りて時ありみささぎの櫟の枯れ葉音立てて落つ
 ・入江なす海に音なき夕べにて羽根裏見えて舞ふ鳶のあり
 ・冬の夜は月の光に静まりて岬を占むる米弾薬庫
 ・満潮となりゆくらしも橋の下油逆のぼる夕べとなりぬ
 ・老いし鯉ゆきてひそまる岩かげに散りてたまれる山茶花の花
 ・テトラポッドあらはに照らす月夜にて嵐の過ぎし波のよる見ゆ
 ・対岸に見えて暮れゆくタンカーの鉄切る炎光増しつつ
 ・杉村の秀のへを飛べる白鷺の脚さへ見ゆるよき月夜なり
 ・蓮沼の明るむは月の出づるらし病舎しづまる夜のふけにして
 ・ものを言ふ声はそこよりきこえつつ送電塔ある谷くれむとす
 ・高々と鉄塔の上に人居りて相呼ばふ声は谷に谺す
 ・オオケダケ吹ける朝の風きこゆ秋されば癒えむ我ならなくに
 ・この朝風あり木犀の香を吹けばなほしばしまの命生かしめよ
 ・家ごもる今日のひと日の夕づきて逝く年の風ガラス戸に鳴る
 ・にほ鳥は水のいづくにひそむらむ月の明りはただほのかにて
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