「宮脇武夫全歌集」から
*宮脇武夫は明治36年(1903年)千葉県生まれ。19歳東京商科大学専門部に入学、22歳で上記大学を卒業、守屋商会に入社、横浜小学校夜学部嘱託で英語、簿記,商事要項を教授。24歳両目失明して退職。翌年にアララギの会員となり昭和13年(1938年)36歳で死去するまで歌を詠んだ。
*歌集には斎藤茂吉が序歌を三首寄せている。(昭和13年秋 斎藤茂吉)
・盲ひたる君なりしかばわがこゑをなつかしといひて近く居りにき
・くれないの蓮の花も目にわかずあり経たりけむ遺歌あはれ
・朝よひに君が起居のおもかげの永久にのこりてかなしきろかも
*佐藤佐太郎によれば、時々彼の家で歌会が開かれたが、その中で「彼の批評は論理的で細かく、言葉の味わいを重んぜられた。自説を堅く固持して譲らない所がありこれは頑固というより、熱心と自信を思わせた。また座中誰よりも雄弁であった。」と言う。
晩秋の光あまねき櫟山馬子より先に馬のぼり来る
今行きし寒紅売りの袋路を帰り来るらしだみ声にして
下駄のあとしるくつきたる泥干潟夕さし潮にかくるる早し
きび畑遠く続けりたたなはる雲をつらぬき稲光すも
きぞの夜と位置はかはりて窓下に今宵は来鳴く閻魔蟋蟀
つひにつひにわが眼は暗し事ごとにもどかしけれど生きねばならず
つぎつぎに友が娶ると聞きぬれど心なげかふ時たちにけり
夕つのる北風の音のしたしさを知りそめにけり訪ふひとなしに
今日もまた晴れにけらしも青空をこの眼もて見むわれならなくに
日あたればはばたく籠の小鳥すら眼もてりと心なげかふ
かすかにも見ゆる光か電灯に顔ちかじかと寄せつつぞ居る
うつつには何も見えねどきぞの夜も夢にひとこそ見たりけるかも
傍にをみなの居るを感じつつ電車の中に立ち居たりけり
湯あみして外に出づれば月読に暈かかれりと弟のいふ
眼の前に壁を感じて立てりけりもろ手さしのべ立てりけるかも
鎌倉の浜に立ち居て大島の煙ながめしむかし思ほゆ
添ひ歩む母の丈低し照る月の光明しと言ふ声きけば
現身のぬくみのこれる朝床を片付け終へてなすこともなし
肩なめて盲の吾と丘を行く友は月をし見て居るらしも
吾が部屋に入りて来るは誰ならむ窓の戸閉めて出で行きにけり
行くほどに草匂ふなりこの丘に吾を連れ来し汝有難し
いや遠くいまは響かふ雷は東京湾を渡りゆくらし
寒き夜のま夜中とふけまさりつつ障子はためく音ぞ聞こゆる
したたかに己が額をうちつけし潜戸くぐるひとりごと言ひて
まむかひに妻を迎へし家ありて朝戸あけつつ何か言ひ居り
陽を浴びて聞きつつあれば石刻む男たしかに二人居るらし
暮れがたは家をゆるがす風ふきて天井裏に砂落ちやまず
わがために楽譜よみゐし妹は机にふして眠りたるかな
キリストが見えぬまなこに手をふれて治ししこともわれは思ひき
夜いねて盲しわれのみる夢は光も影も淡くなり来ぬ
むら鴉頭の上を啼きすぎてこの丘原は吾にしたしき
声たてて読ましめながら兄の子に英語を教ふさむき夜ふけに
わが顔をてらす冬日はかげりけり空を覆ひて雲すぐるらし
大きなる眼鏡をかけしわが顔の記憶もいまはうすれきたりつ
見る夢のうするるまでに眼がみえずなりはてしより吾は年経ぬ
まどかなる月かかれりと峡の空見上ぐる友と橋を渡りつ
まわりより耳に親しき声すれど顔はいづれも知らぬ友らかも
いづくより差すとしもなき日の光庭のひなたは移りゆくらし
春蝉は疾風ふき立つ雨あとの林がなかに低く鳴きつつ
この丘に梅雨晴れゆかばひぐらしは何千と知れず鳴きとよむべし
ひよどりは櫟林に鳴き居りてあたたかき雨ひねもすふりぬ
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