今回は伊藤左千夫(1864元治元年〜1913大正2年)の歌の紹介です。
左千夫は千葉県九十九里浜の近くに生まれ眼病のため法律学校を中退し、現在の東京都江東区錦糸町の辺りで牛乳搾取業を始めます。東大入学前後の貧しい土屋文明を支えました。正岡子規との論争後、明治33年四歳下の子規の門下に入ります。明治35年(1902年)35歳の子規の没後、その後継の歌人をまとめ、歌誌「馬酔木」ついで明治41年(1908年)創刊の歌誌「アララギ」の中心歌人となり、森鷗外の観潮楼歌会に招かれるなどして、島木赤彦、斎藤茂吉らの後進を育てます。その作風は子規ゆずりの写生歌に、雄大で切実な感情がこめられています。
また、子規に影響された写生文や小説も書き、その代表作「野菊の墓」が有名です。
牛飼
が歌よむ時に世のなかの
新
しき歌大いにおこる
没後刊行された「左千夫歌集」の巻頭歌
病みこやす君は上野のうら山の桜を見つつ歌詠むらむか
人の住む国辺を出でて白波が大地ふた分けしはてに来にけり
九十九里の波の遠鳴り日のひかり青葉の村をひとり来にけり
鶏頭のやや立ち乱れけさや露のつめたきまでに園さびにけり
おり立ちてけさの寒さに驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
さびしさの極みに堪えて天地に寄する命をつくづくと思ふ
ゆづり葉の葉びろ青葉に雨そそぎ栄ゆるみどり庭に足らへり
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