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今月の秀作と選評




大井 力(新アララギ編集委員)


秀作



大橋 悦子

入り口のフェルメールに息を整えて弱りゆく父を日々見舞いたり
時来れば静かに看取ると言いてのち今日も変わらず父に添いたり


評)
父君への深いいたわりが直接伝わる。まだ少々傷があるが、深いこころがそれを補う。歌は言葉をあやつる技術ではなく、こころの深いのが一番である。



小泉 誠

ニガウリの忽ち熟れてだいだいの色に変はりて土に還りぬ
来む年も蒔かむと雨後の土くれに拾ふ幾粒のニガウリの種


評)
落ちたものがたちまち土に返る。この無常感は歌として常道かもしれない。しかし対象をよくみていることでこの歌は救われた。なんでもないニガウリによく注目した。



吉岡 健児

秋がよく似合ふと笑まひ寄りくるる妻と色づく落葉を拾ふ
巻けどなほ遅るる時計の螺子を巻く吾に似たると慈しみつつ


評)
二首目、結句「慈しみつつ」としてすこし定石的なった。惜しい。ここ一番また考えることを勧める。しかし叙情的な一連であり好感が持てる。



新 緑

玉ねぎを麻痺免れし右の手に剥きて鶏肉と卵を炊きぬ


評)
闘病も長いのであろうか。右手片方で剥く玉葱、不自由をものともせずにである。鶏肉と卵は作者のなりわいの「養鶏」に関わるのである。事柄にながれず事実に即しているのが、強みといえよう。



栄 藤

長といふに縁なきわれが順番の回りきて隣保長を務める


評)
順番の隣組の役割、結句ややぶっきらぼうに見えながら、心の動きがよくわかる。「隣保長」とは隣組の役割かよく理解が出来ないが、順番であるから多分そうではあるまいか。複雑な感じが交錯しているところがいい。更にたどたどしいのがいいのである。



浮 草

留年を危ぶむ孫を叱りゐて自ら傷つく母も老いたり


評)
結句の「老いたり」にはまだ工夫の余地はあろうが、母への思い、子への思いが深く滲んでいる。直裁に詠っているのがいい。



けいこ

はや起きてぐづるおさなご負ひくれば蝶は眠れり宵待草に


評)
叙情的な一連でいいと思う。この歌「負ひくれば」あたりまだ工夫の余地ありとみるが、作者には精一杯というところか。その精一杯がまたいいのである。



イルカ

五重芯の花火の色の変わりゆく闇に思わず息をのみたり


評)
一瞬の花火をよく捉えた。花火は一瞬だけれど、三十一文字は永遠なのである。息をのんで見上げる作者が目の前にいるようだ。



石川 一成

登りこし鹿島の森に垣間見る夕光かえす北潟の湖


評)
路傍の感であるが、くっきりと把握されており、作者の力量がよく示されている。



斎藤 茂

食堂に「ハッピーバスデーしげじいー」の歌声ひびきわれはとまどふ


評)
二句三句の実際の呼びかけがいい。作者のありのままがいきいきと描かれている。感じのいい歌である。



英 山

風抜ける大通り公園に鈴懸の痩果落ちくる肩に頭に


評)
痩果はややなじまない呼び方だけれども、感じはわかる。移る季節を旅ごころにのせて詠っている。


佳作



市村 恵

通り雨日の射す森にきらめける峠の道は誰も通らぬ
崖(きりぎし)に幹太き桜蔽ひ立てり去年(こぞ)も今年もここを通りき


評)
この歌も吟行の歌。一連手馴れたものだけれど、もうひとつ焦点を絞ったみかたがほしい。形はできている。定石の手法とか見方を抜け出すのはどうするのか実作でしか仕方がないのである。だれもが同じ壁を持っている。



新 緑

リハビリの改正計画立たぬまま新料金を請求されぬ
仲間との海越ゆる旅の約束に足を鍛ふる杖を頼みて


評)
切ない事実関係と抒情詩とは紙ひとえである。この歌全体からにじみ出ている情緒がそれを救う。いい歌である。



大橋 悦子

救急室にはずされし父の腕時計を握り心拍の続くを願う


評)
この歌も切ない。せつなさを人は詠う。救いを求めて。せつなさが抒情詩にまで昇華できるかは難しいところ。一心に詠い続ける、だれもそれを教えることは出来ない。作者がみずから掴むことだ。



けいこ

草生ゆる路地通るたびおさなごは話しかけをりつゆくさの花に


評)
なんでもないことだけれども読むとこころがほぐれる歌である。



浮 草

若きより一途に守りし店を継がむ孫の帰省日数ふる母か


評)
秀作に推した歌とレベルは変わらない。連作のなかの一首として意味のあるものが出来た。



イルカ

湯上がりのほてる体に風うけて夜空に白き銀河を仰ぐ


評)
縁台にでも涼んでいるのであろうか、こういう風情ももうなくなったと思ったが、まだあるのである。なんだか安心させられる歌である。



吉岡 健児

秋の風吹く昼下がり色褪せしボードレールの詩集をめくる


評)
秋とボードレールの詩集に名前負けしていよう。ここは「文庫本の色の褪せたボードレールを開く」をうまく字数をあわせていえばいいのである。



英 山

堀端のカフェに憩へば木々越しに通勤電車の明り過ぎゆく


評)
早朝の旅先であろうか。それをぼんやり作者が眺める。こういう旅ごころののべかたもある。「憩へば」あたり工夫要というところ。


寸言


素裸の自分を見つめる

誰だって同じだろうけれど歌に向かうとき、いい歌が作りたいという意識が勝ち過ぎないことだ。意識が勝つと技巧が勝つて肝心なことが言えない。
 対象を見つめるということに留意するとき、草を見つめれば、草になるまで見つめよ。
石を見つめるとき、石になるまで見つめよという。それが没入ということだ。さすれば自分を見つめるときどうするのかということになる。自分の素裸を曝すより仕方がない。でなければ自分が見えてくる筈がない。即ち自分を見つめることなど出来はしない。毎日なんの気なしに歌を作りながら肝心のことを忘れがちなのである。


                  平成18年9月25日
                  大井 力(新アララギ編集委員)


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